六車由美「驚きの介護民俗学」医学書院、2012年・・・ケアの技法としての「傾聴」なんて偽善だ
巻末の著者紹介から。
1970年生まれ。大阪大学大学院修了。文学博士。「神、人を喰う―人身御供の民俗学」で2003年サントリー学芸賞を受賞。東北芸術工科大学准教授を経て、現在郷里の静岡県の特養内のディサービスに介護職員として勤務。 「大きな存在をいくつも失い、絶望のなかでさ迷い歩いた末にたどり着いた先、それが介護現場だった。」
そういう経歴の人が介護現場をフィールドとして聞き書きをした記録である。老人ホームは「民俗学の宝庫」だという。
著者が自分を「民俗研究者」と名乗って、決して「民俗学研究者」と言わないのに気づいた。考えてみれば、そうだ。民俗を研究していることはあっても、「学」を研究することはないだろう。もし「学」を研究するなら、その「学」自体がすでに死んでいて一つの対象になっているのである。そのあたり、この人の言葉への感覚の鋭さを感じた。
著者の感覚と自分の類似を感じたところが一点ある。僕は「よくできた看護師」の笑顔がいっぱいの頷きと相槌にいつも偽善を感じていらつき、「うん、うん」という晴れがましい声が自分の診察室に聞こえれば、「気が散るから向こうで話してほしい」と頼んできた。
著者もケアや介護の方法としての「傾聴」「共感」「受容」に拒否感を表明している。それらはまさにケアの一手技にすぎない。たとえば「傾聴」とは相槌を打ち、相手の言ったことをしばしばオウム返しすることである。それさえ出来ていれば相手の言ったことの内容に関わる必要は最初からない。頷く自分、相槌を打つ自分、オウム返しをする自分に満足しているケアワーカーという俗物がそこにいるだけである。
それがケアする側の優越感に満ちた偽善でなくてなんだろう。
彼らが頻繁に使う「最後までその人らしく生きることを援助する」という言葉に僕が納得しないのも同じである。「その人らしさ」はきわめて類型的な形式なのである。ステレオタイプといっていいだろう。「長く寿司職人だったその人らしさ」などというものをいとも簡単にでっち上げて彼らは満足する。本当の「その人らしさ」はそんなに簡単に捉えられるものだろうか。また。その人らしさが「徹頭徹尾、朝鮮人を差別し抜いて生きてきたこと」だったりする時彼らはたじろがないでいられるのだろうか。
自分の思いを語りすぎた。
しかし、それとほぼ同じことは、終末期にある春子さんに長時間の聞き書きをした経験にも語られている。著者に聞き書きを頼んだ職場の責任者は、春子さんの心の安定を期待していたのだが、聞き書きに応じることは春子さんにとって相当の負担になっていた。
それでも、別の、もっと本質的な効果があったと著者は言っている。ケアをする者と受ける者の固定した優劣のある立場が逆転し、教えを請うものと教える者の関係性がそこに現れるからである。そのことは、心を安らがせることとは違う次元で、語る人の人生を豊かにする、まさに人生最後の時点でそれが誕生することに意味がある。
また著者の言語感覚に賛成するところが最後あたりに出てくる。「介護予防」という言葉は、要介護状態をネガティブに捉えすぎていると言う。飽くまでケアする側の権力、優越性を振り回している言葉なのである。
要介護状態は予防したり避けたりするようなおぞましいことではない。いうならその人の人生に沿った「介護準備」という言葉にしたらどうだと著者は言う。
そして、あまりに外形的にすぎる個人の情報(家族構成はどうだ、だれがキーパソンだ、かかりつけの病院はどこだ)記録にとどめず、もっと個人誌に迫って、厚みのあるものとしてその人の人生を受け取ること。
今後、要介護状態になるだろう人は、そのときケアするものに自分の人生を厚みを持ってしっかりと提示するために「自分史」をどこかでまとめておいた方がいいのかもしれない。そのときに民俗学の方法が手助けになり役立つのかもしれない。
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