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2012年3月16日 (金)

「架け橋」論と「」論の類似性、および私の意見

ある政党や団体が自らを、諸運動のである、あるいは架け橋であると規定する時は、二つの場合がある。

一つは、その政党、団体の自発的意思による場合である。そうであろうと自らが決意するだけで、何ら特権的な地位を社会に求めるわけではない。多くはそれで十分である。

もう一つは、客観的にそうである場合である。
ある国の共産党が、そういう名称を名乗っていることはその党が諸運動のであることの客観性をなんら保証するものではないが、民医連が諸運動の架け橋になると言った時、僕にはそのことの客観性はむしろ強調すべきものとしてあると思える。

それは民医連が、協同組合的事業と住民運動の複合体として、「生産物の交換形態という経済的土台」(柄谷による・・・根拠はポランニーらしいが・・・それについては今後勉強する予定)の平面で、互酬・贈与のセクターに独特で確固とした位置を占め、国家セクターと資本セクターの融合と支配に対抗し、乗り越えて行く可能性を持っているからである。

*民医連自身は「非営利・協同セクター」に属すると言っているが、「互酬・贈与セクター」という方が多くの人にわかりやすいのではないか?
*協同組合的事業と住民運動の複合体と、簡単に言ってしまったが、今思いついたところでは、協同組合事業は土台に属し、住民運動である共同組織運動は上部構造に属するのだろう。運動から事業が生まれたという時間上の配列によって、それは逆だと反論されるかもしれないが、協同組合事業が、古くから存在する互酬・贈与の交換様式の、資本主義時代における表現だという事情を考えれば納得できることである。

もちろん、いまのところ、「諸運動の架け橋になる」と宣言する自発的意思の表明段階にすぎず、客観的にその役割を担う段階には至っていないが、単に自らが架け橋になりたいと思っているだけなのでないことはしっかり認識しなくてはならない。

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