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2012年3月 8日 (木)

ある病院での講演原稿「健康権の担い手となる医師養成を考える」

こんなものをブログに載せるのはどうかと思うが、私の作業の必要上、ここにアップしておいた方が使いやすいので、そうする。

いつも、話が尻切れトンボに終わるので、今回は原稿を書いて、余計なことに迷い込まず、すっきり、時間内に言いたいことを言いきろうと決意したのである。

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本日は重要な会議にお招きいただき、ありがとうございます。1時間しか時間がありませんので簡潔にお話を終わらせたいと思います。

○私に与えられたテーマは「健康権の担い手となる医師養成を考える」です。

○しかし、今何を考えるにしても、東日本大震災との関連なしには進みません。2011年の大事件というレベルにとどまらない国民的体験だったと思えます。もちろん1931年から1945年の戦争体験の甚大さに比べることはできないわけですが、それでも、今を生きている青年職員にとっては、本物の民医連職員になるため欠かせない原体験となっただろうことは間違いがありません。

しかし、そうなるかどうかは先輩職員の認識にも左右されます。

○そこで、東日本大震災から私たちが得る政治的な教訓を二つにまとめますと、一つは新自由主義的構造改革が被害を拡大し、復興を歪めているということです。これは私たちにとって新しい福祉国家構想を進めることが緊急の課題になっているということを意味します。もう一つは、被災地に寄せられた国民の気持ちは新自由主義的な自己責任論から国民が解放されるとどれだけ利他的になるかを見事に示しており、ここに新しい福祉国家を可能にする力を見て取ることができるということです。

○災害を利用したり、場合によっては自ら災害的事態を作り出しながら進む惨事便乗型資本主義のショックドクトリンという方法論についてはナオミ・クラインというジャーナリストのベストセラーがありますので、ぜひ読まれるとよいと思います。

○災害を利用して、国家の管理してきた事業をむりやり民営化し、国民の税金を略奪していく最悪の資本主義は「富んだ1%貧しい99%」を生んだ元凶といえます。

○しかし、レベッカ・ソルニットという別のジャーナリストは、ナオミ・クラインの描き出す民衆像は、災害にただ逃げまどい腰を抜かすだけで真実でない、まるでハリウッド映画そのままだと批判しました。

○本当の民衆は、災害に出会うと本当の能力を発揮し始める、災害時の民衆の示す行動にこそ未来社会の希望が垣間見えるというのが彼女の主張で、それに「災害ユートピア」という名前を付けました。もちろんそんなユートピアはあっという間に消えてしまうのですが、それを永続させることを考えようというのがこの本の趣旨です。私はこちらのほうに共感を感じますが、ぜひ両方を読み比べられることをお勧めします。

○以上を全体の導入分として、すぐに健康権に関するお話に入ります。最後の医師養成に関するところでまたこの話に舞い戻ることになろうかと思います。

◎私に健康権について考えさせたきっかけは2011825日に開いた在宅医療交流集会の問題提起作成にあたったことでした。

この集会は在宅医療をテーマに全日本民医連が初めて開いた集会でしたが、単一の課題を取り扱った集会としては過去最大の550人の方の参加がありました

在宅医療は次の時代の医療の主役だという予感がすでにあったのだろうと思います。

2025年から超高齢社会のピークの時代に入りますが、総人口は今から1000万人近く減少し、年間死亡者は約1.5倍、数では50万人くらい増えます。

○こういう事態に対する政府の方針は「地域包括ケア」です。中学校区内で介護・医療・予防・住まい・生活支援の各サービスが連携しながら完結するという構想です。

○一方、超高齢社会での人の亡くなり方ですが病院・介護施設で90万人、自宅および居宅(簡単にいえば老人向きアパート)で70万人という計画で、自宅・居宅で亡くなる人が現在の5倍になると想定されています。

○これを在宅医療が5倍になると単純に考えると、現在60万人が定期往診を受けていますが300万人になるという話になります。

○本当にそこまで在宅医療が拡大するという話になっているのでしょうか。計画として語られている数字は現状の1.6倍から1.8倍程度に過ぎず、2倍にはならないというものです。

○とすると、在宅医療は拡大しないということが見えてきます。医療から介護へのシフトがうたわれており、定期往診従事する医師は現在と変わりません。2025年に医師数はせいぜい現在の2割増しで、それも大半は急性期医療に集中するという方針です。

○では介護が拡大するかというと、今年の診療報酬改定を見ても縮小傾向が明らかです。

○予想される未来は悲惨です。急性期病院とハイテク在宅医療にのみ資本投下がされますが、それは高所得層が民間保険を使って利用します。中小病院や診療所、特別養護老人ホームなどにはほとんど資本投下がなされず、貧困者の吹きだまる所という性格を深めます。特養の整備が進まず待機者がまったく減らないのはこの事態の先取りです

○その結果、様々な名称の医療難民、療養難民が巷にあふれ、一人で誰にも看取られず自宅や居宅で死を迎える「死難民」も増えると予想されます。それに対して住民同士の見守りを強制させると思えます。

結局こういう人たちが増えるので、在宅・居宅死が5倍になっても在宅医療の供給量を増やす必要はないということになります。

○以上が厚生労働省の「地域包括ケア」から描きだされる未来ですが、これに対して民医連はどういう展望を持つのかということが問題になります。

○そこで民医連がめざす在宅医療の将来像を6項目挙げてみました。

政府のいう地域包括ケアはうそだらけではあるが、病院でのケアではなく、地域での包括的なケアが超高齢社会の姿であることは間違いありません

在宅医療は数倍の規模になるべきです。

またサービスのあり方と費用負担は社会保障の2大原則である現物給付と応能負担をつらぬいて、決して医療と介護を商品にさせない。

こんな所に人が住んでいるのかという家に往診にいくこともよくありますが、高齢者の住宅の質を公的な責任で改善しなければなりません。

また病院から在宅へという流れは避けられないのですから、在宅での医療は「在宅入院」とでもいうべき24時間365日体制で行われる必要があります。そして、これらのことは地域の総力を挙げなければ実現できないだろう、地域連携は飛躍的に強化されなければならないでしょう。

○簡単にいえば「安心して住みつづけられるまちづくり」の一環としての在宅医療を目指すということになります。

○そのとき、安心して住み続けられるまちの真ん中には病院を置こう、と一歩踏み込んでいうことが必要かと思います。それは作家の池澤夏樹さんが、被災地を歩いて直観的に感じたことでもあります(「春を恨まない」)。

○先ほどの図を書きなおすと、真ん中に中小病院と診療所のネットワークを置いた地域包括ケアの図を描くことができます。

○中小病院と在宅医療を真ん中に置いたまちづくりを産業医大の松田晋哉氏は「病院門前町」と呼んでいますが、ずっと昔に若月俊一氏も「メディコポリス」という言葉で同様の構想を語っていました。真ん中に来る病院を、今回の全日本民医連総会が強調したHPHだと考えることもできます。

○病院門前町構想の萌芽として松田晋哉氏は、青森 浅虫温泉の浅めし食堂と、北九州ふらて会の「半農半患」でやる福祉農園の例を上げています。

○そういう実践の積み上げが大事だと思いますが、松田氏が語らないもっと重要なことがあります。それは、地域包括ケアを担う医師の養成です。先ほども言いましたように、地域包括ケアのコアは地域連携ですが、そこで最も重要なのはコミュニケーションです。ケア・マネージャーの8割が介護系になり、彼らは医師とのコミュニケーションが最も苦痛と言っています。

そういうなかでフラットな人間関係を作れるのは、病院内の民主的集団医療で鍛えられた民医連の医師だけだと言いきって過言ではありません。そう考えると、地域連携は、病院内のチーム医療の発展だということも自然に理解して頂けると思います。そういう医師を引き続き養成できるかどうかに在宅医療の発展がかかっています。

○厚生労働省の唱える地域包括ケアについてきわめて否定的にお話ししましたが、文字通りの地域包括ケアが歴史的な必然であろうということはもう一回強調しておかなければなりません。それはケアにかかわる社会の価値観が変化しているためだからです。

○その価値観の変化は、高齢社会の到来によって生じたものではありません。

○この問題は、猪飼周平という一橋大学の若い経済学者が検討を深めているものであり、彼が2010年に出版した「病院の世紀の理論」はそれなりに反響を呼びました。

○医学的治療よりQOLの方を優先するという考え方、すなわち「病院治療モデルから生活モデルへの変化」は20世紀後半に深められた、ノーマライゼーションなどの言葉で広がった障害者福祉論から始まって、ケアに関する社会の価値観を変えたとみられます。

○ここで、障害者福祉が、ケアの価値観を考える上で決定的に重要となるということは、あとで何度か出てくることになるアマルティア・センも言っているように、障害者福祉が社会の断固とした支援なしには、したがってケアに関する価値観の深い検討なしには成りたたないという性格から来るもので、なんら不思議なことではありません。

○猪飼周平氏の主張が注目を集めたのは、20世紀になって病院医療は初めて実際的な有用性を発揮してケアの中心になり、20世紀は「病院の世紀」になった、

○しかし、それ自体の失敗からではなく、ケアの価値観の変化によって、21世紀は「QOLの世紀」あるいは「地域包括ケアの世紀」となって、「病院の世紀」は終わりを迎えると主張したからです。

○QOL優先を表現するものとして私たちがよく目にするのは「最後までその人らしく生きるのを援助する」という言葉です。憲法13条の個人の尊重と幸福追求権に基づくものだと教えられましたが、たとえばその人が人種差別主義者であったときも、その人らしさを援助するのか、と疑問を抱かざるをえません

○結局、猪飼周平氏のいう「地域包括ケアの世紀」も「QOLの世紀」も21世紀に起こっている重大なケアの価値観の変化を半分言い当てているだけにすぎないと思います。「病院の世紀」はbio-medicalな価値観 の表現でしたが、「地域包括ケアの世紀」はbio-medico-psychologicalな価値観の表現に過ぎません。

少し話は変わりますが医療生協の患者の権利章典も結局このレベルにとどまっており改訂が必要と考えています。

○そこでようやく21世紀にどういう変化が起こるべきか、それこそが、健康権に基づく価値観の確立だ、という話に入ります。ここからが本論です。それはbio-medico-psycho-socialなものであり、20世紀が戦争と殺戮の世紀だったことの反省の上に立っているということができます。

○到達可能な最高水準の健康が保障されるということを内容とした「健康権」が最も基本的な人権だということは、第2次大戦後の国際社会に確立しています。

1946年のWHO憲章前文

1976年の国際人権規約

2000年の国際規約人権委員会 健康権に関する一般的意見第14

などが代表的文書です。

○ここで問題となるのが憲法25条第1項の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という言葉との関係です。これは明らかに敗戦国の戦争直後の窮乏した状態が反映されており、最低限度の生活という言葉もその後「標準的な生活」と読み変えられるに至っていると私には考えられます。

○さらに言えば、憲法25条にカッコで「生存権」と付されている経緯は私にとって今のところ謎です。ふつうに生存権を、殺されない権利と解釈すれば、これはむしろ憲法13条にこそふさわしいものです。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とされているからです。慶応大学で医療政策を専攻している印南一路氏はこれを個人尊重、社会的生命権、幸福追求権と分解して解釈することを主張し、社会的生命権を根拠に救命救急医療は全国民平等に無料で保障されなければならないとしているくらいです。

しかし、そのような国際法や法律の条文解釈は今求められていることではない。今求められているのは、現実に存在する不健康をなくすためのアプローチの仕方をはっきりさせることなのだ、それが健康権を確立するということなのだ、ということが、今日私が話したいことです。それはアマルティア・センが「正義論」の議論の中で言ったことと同じことです。

ここからが、本論中の本論となります。

一部省略

○総論

○国際比較では、ある程度国が豊かになると、一人当たり所得と平均寿命が相関しなくなります。

○しかし、先進国間の国際比較でも、所得格差を横軸にとると大きな健康指標の違いがあることが見えてきます。

○さらに、国内に目を向けると、豊かな国の中でも、所得が死亡率を決めているという意外な事実が見えてくる。これは平均寿命で国際比較をしているときには見えてこないものです。

先進国の健康格差問題が深刻だということがここ辺りからはっきりしてきます。

省略

○マーモット・レビュー2010の図の解説

○図1 収入別の平均寿命は最大7歳の開きがあり、健康寿命で見ると17歳の開きになる。この結果、68歳の年金受給開始までに3/4の人が健康寿命を失っている。

○図2 イングランの東北地方と南西地方を比べると単純作業の人では10万人あたり死亡数が700対400と大きく開く。東北地域の死亡数の多さを南西地方に近づけることは可能なはずだから、今は失われなくてもよかったはずの命が大量に失われている事を意味する

○図3女性の精神状態を見ても明らかに社会格差が存在する。但し、2001年に比べ2006年は若干改善している。

○図6 富裕層の子どもは最初認知能力が低いように見えても大きく伸びる。逆に品構想の子どもは認知能力が高くても、やがて低下してくる

○図7 標準的な慢性疾患への罹患率を見ると明らかに低学歴で高く、高学歴で低い

○図8 失業すると、どの階層でも死亡率は1.5倍に高まる

○図9 所得が少ないほど税率が高く、その大部分は消費税による。消費税が低所得層の可処分所得を過剰に少なくしている

○図10 地域別収入と地域の不良環境の数を見ると、貧困地域になるほど正確環境が悪化するのが分かる

○図11 どの地域を取っても子どもの肥満は富裕層で低く、貧困層で高い

○こういう事態を正面から見つめると、病院はいつまで「崖の下の救急車」の役割だけで満足していられるだろうか。

崖の上の殺戮を止めさせる病院、それがHPH Health Promotion Hospitalだ

○Ⅲ では健康権の実現のために私たちは何をなすべきか

○マーモットレビューは6項目掲げました。6項目は覚えにくいという方があると思います。

○マーモットと並ぶ、アメリカの社会疫学の代表者のイチロー・カワチは思い切り簡略化して3項目挙げています。こどもの問題、雇用の問題、貧困の連鎖の問題です。

○とくに子どもの貧困の問題は日本では特に重要です。子どもの相対的貧困率はソリッドファクツの中にも取り上げられており、最も高率なのはアメリカですが、子どもの中でも一人親のもとにいる子どもを抜き出すと。先進国のなかでは日本が断トツに高くなります。この層の健康は本当に危機にひんしているとみなければなりません。至急、手が打たれるべきところです。

○さて、全日本民医連40回総会は、民医連の役割をいろんな運動や個人の間の架け橋になるとしました。下の方に小さな文字で書いたのは私のアイデアを書きとめたものなので気になさらないでください。

民医連が架け橋になるというのは、民医連の規約に書いてあるような話ではありません。そう自己規定しているわけでなく、誰でもが気がついた順に架け橋になっていけばいいと思っているということですが、それでも私には、民医連が架け橋になる必然性がやはりあると思えます。それは、民医連が非営利・協同のセクターの一員として、経済的な土台に根差し、国家や大資本に直接対峙していく立場にあると思うからです。

なお、この図で、非営利・協同の事業と、それと一体になっている共同体を書き込んでいる点に注意してください。

共同組織は、共同体そのもであるか、共同体形成の過程です。

このことは、従来の非営利・協同論では述べられていないことで、私のオリジナルです。

○この問題は難しい部分を含んでいるのですが、私はとくに柄谷行人の最近の主張が、民医連のこの立ち位置を説明するものと読み込んでいます。柄谷は、社会の経済的土台にアソシエーションが(これは非営利・協同セクターと同じ意味だと思いますが)大きな位置を占めることが次の社会を準備すると言っています。

そのことは、グローバル資本が各国家と各国民をからめ取って武力で支配している現状を変えるからです。

その過程で日本が憲法9条を国連で改めて宣言して実行すれば、そのことが国連を、不平等な安全保障理事会型でなく、平等なWHO型に変革することになり、最終的には世界共和国の樹立に至ると言っています。

皆さんはこれを夢物語と思われるでしょうが、センはグローバル共和国は実現しないが、グローバル民主主義は不可能ではないと言っています。柄谷がセンの意見を参考にしていないとは思えません。

 ともかく、そういうグローバルな変化は非営利・協同の経済事業からしか生まれ来ないとも思えますから、私たちが架け橋になるのは、明文化されなくても歴史の必然だと私には思えます。

○ただ、そういう夢のような話をしているばかりではいけないので、全日本民医連の方針に立ち返ります。そこでは、QI事業とHPHがとくに強調されています。

QIは医療のエビデンスと実践の間のギャップを明らかにしたものと言われます。しかし、このままではあくまで病院内部の業務改善にとどまります。民医連が目指しているのは、QIと地域診断を結びつけることです。

○地域診断そのものは、最近注目すべき動きがあり、日本福祉医学の近藤克則先生がJ-AGES HEARTという指標を考案しています。高齢者の健康に限ってのことですが、地域診断のコアになる21項目を発表しています。

○これとQIを結び付けていくことができれば、日常的に地域診断を進めていくことができる、それこそが私たちがQI測定に励む意味ではないかと私は考えています。そうでなければ私たちと聖路加病院の有名なQI活動との間にどれほどの違いもない、私たちは劣ってみすぼらしい聖路加病院だということになってしまうと思えます。

(省略)

○Ⅳ 以上述べてきましたが、これらのことの実現は、健康権を担う医師づくりにすべてがかかっているといえます。

冒頭、レベッカ・ソルニットの災害ユートピアの話をしましたが、健康権が何かを分かっていただくと、日常が健康権を剥奪されている災害現場に見えてくると思います。日常診療の中に災害を見出していく目を持った医師こそ、地域医療のプロフェッショナルだと呼びたいと思います。

○たびたびセンを引用して申し訳ありませんが、センは人間のケイパビリティの中に、自分が幸福になる方向と、人の幸福に尽くす方向を見ており、この方向に向かう人をエージェントと呼んでいました。

○エージェントとは自らの行動で社会の変化を作る人ということにもなりますが、民医連の医師はその典型である必要があると思います。

○そういう医師を育てる具体例としては、山梨の総合診療科の活動があげられます。

○総合診療科が、急性期病院である甲府共立病院と、地域の中小病院診療所、在宅医療部門を結びつけるハブのような役割を果たし、そのなかで地域医療全体に貢献する医師を作ろうとしているわけです。

○山口でも中小病院の宇部協立病院がハブになる試みをしています。地域の各病院に総合診療科を作り、そのネットワークで地域医療のコアを作ろうという発想です。

○これまでの「地域連携」というレベルでは、中小病院の地域連携室を結びつけることが重要でしたが、もう一段進んで、地域医療の民主的形成を目指すとなれば、地域連携室ではなく、総合診療科が必要だということ、翻って、中小病院は病院丸ごと総合診療科になることにより、地域医療のハブとなる展望が開けてきます。

○これは医師養成での協同が地域連携を地域医療の民主的形成という高い次元に引き上げる構想だと私は考えています。

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