全日本民医連「無差別・平等の医療をめざして」上巻2012
民医連は1929年労農党の代議士山本宣治の暗殺を契機に1930年開設された大崎無産診療所から始まっている。そこからは82年の歴史である。
組織として民医連が結成されたのは1953年6月7日なので、2013年に60年目を迎える。
僕は1976年に大学を卒業してすぐに民医連に入ったので、この4月で満36年在籍したことになる。結成以降の6割は自分の歴史でもある。
そういう意味では、自分の存在しなかった時期を多く取り扱っている上巻は、知らなったこともたくさんあって学ぶところが多かった。
今後、これをもっと広い世界史、とくに社会保障を求める運動の歴史の中において読み解く作業をするとより面白くなるだろう。
*民医連ができる以前の話だが、1918年の米騒動は明らかにレーニンの10月革命の影響によるものだった。その米騒動の時、僕の住む宇部では炭鉱夫がたち上がり、取り締まりに当たった陸軍の手で10数人が銃殺されている。その後、荒れた街の住民を懐柔する目的で西日本一と称された炭鉱病院ができ、市民にも開放されたのだが、その病院がのちに山口県立医学専門学校設立時に附属病院として寄付され、戦後の山口大学医学部につながっていく。簡単に言うと、レーニンが山口大学医学部を作ったという話である。民医連の方針の変化の中にも世界政治や世界的な運動が大きな影響を与えているはずである。それはこのような本には書きにくいことだが、話すという形では表現できるだろう。
**たとえば、僕が初期研修をした北九州・新中原病院の真角欣一(ますみきんいち)院長は僕によく1950年代の山村工作隊活動の経験を話してくれたものである。赤旗新聞購読を訴えながら、食料も持たず何週間も着のみ着のままで熊本の農村を放浪して歩く話である。医学生にこんなことをさせたのは、モスクワにいたスターリン、北京にいた毛沢東による武装闘争路線であることが今になるとわかっている。そんな無法な妨害や、朝鮮戦争を遂行していた米軍の迫害にも負けないで民医連運動にたどり着いた少数の人が僕を教えてくれたのだった。
一点、「民主的地域医療づくり、地域医療の民主的形成」に関する記述には疑問を覚えるところがあった。318ページ。
317ページ「民主的地域医療づくり」という用語であらわされる方針が、住民と医療機関の団結の力によって地域の医療のありかたを変えていく展望を提起したというのはその通りだ。
しかし、「民主的地域医療づくり」という用語が、「地域医療の民主的形成」に変わったのは何となく変わったのではなく、
「どこか特殊な感じのする民主的地域医療というものがある地域には存在して、別の地域の非民主的地域医療とは区別されるということはありえないのではないか。あくまで全国共通する『日本の地域医療』の歴史的変化として捉えるべきだ」
という批判があって、用語が変更されたのだった。
さらに「地域医療の民主的形成」という用語が使われなくなったのも、本文のように反動攻撃の中でその可能性が小さくなって消えたというわけではない。
この概念が次第に矮小化されてきて、諸活動の一項として、たとえば医師会や開業医との協力を記述する記事の表題になってしまったことについて、
「民医連綱領全体の意図を言い換えた用語なのだからそのように使うべきでない」
という批判が生じて、公式用語から消えたのである。
このことを、僕が特に言うのには理由がある。
「地域医療の民主的形成」は、、「安心して住み続けられるまちづくり」だけでは表現しきれない医療機関の連携を取り上げた用語として、健康権に基づく地域医療の変容という展望のもとに復活させるべき時に来ていると思うからである。
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