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2012年3月22日 (木)

エレン・メイクシンズ・ウッド「資本主義の起源」こぶし書房2001年

経済活動を、生産物の交換形態から「互恵=互酬+贈与」と「再分配」と「交換」の3類型からなるものとしてとらえ、それを経済的土台としたときに新たな形で見えてくるマルクス主義的社会構成体像を考えるという柄谷行人の主張の原型がカール・ポランニーという20世紀中ごろの経済人類学者にあるらしいので、次はポランニーを勉強しなければならないとようやく気付いたのだが、手ごろな入門書が通りすがりの書店にはなかった。

新刊の若杉みどりさんの解説書は置いてあったが、なんとなくすぐに読もうという気にならず、東京から帰った後アマゾンで探そうと思って書店を立ち去ろうとした時、以前読んだ「資本の帝国」紀伊国屋書店2004年の著者エレン・メイクシンズ・ウッドの小さな本が目に飛び込んできた。

立ち読みしていると「注目すべき例外」としてカール・ポランニーが大きく取り上げられている。

経済が社会の中に埋め込まれていた資本主義以前の時代と、社会が経済の中に埋め込まれる資本主義の時代には、大きな転換があり、本質的な連続はありえないとカール・ポランニーが主張することを、ウッドさんは高く評価している。

結局、その日はこの本だけを買った。

資本主義時代以前にも商業資本主義があり、それが封建制という制約を打破することで産業資本主義に飛躍したという連続性をウッドさんは否定しているのである。ポランニーはその認識を初めて開いた人である。

だが、ポランニーがせっかく断絶を説いても、産業革命という技術上の進歩から資本主義が始まると論じることで、資本主義の起源を探る上では業績はほとんど無に等しいことになってしまうのである。

では何が資本主義をこの世に生んだのか。

それはまず、17世紀のイングランドの田園地帯で、「地主、借地農、賃労働者」という新しい階級構造が生まれたからである。借地権・地代・利潤確保の競争の中で農民は、資本家的借地農と賃労働者に分解したわけである。この競争の中で、輪作や新たな農地の開拓など農業の著しい技術的な進歩が実現した。その結果、以前に比べはるかに少ない人数で以前以上の収穫が可能となった。もちろん、その結果、没落農民は飢餓に直面し、ロンドンの貧民街に溢れた。

農業の改良が価値を生み出すことが明らかとなり、衛生学と経済学の祖ウィリアム・ぺティは労働価値説の原型にたどりつく。

ロックは、改良にいそしむ資本家的借地農を勤勉な『生産者』と考え、地代を横取りする地主や、農作物を売買して利益を上げる商人を社会の寄生者として批判した。この視点はマックス・ウェーバーに引き継がれていく。(資本家的借地農に雇われて働いたり、ホームレスになる没落農民の存在を彼はみていないが。)

簡単にいえば、産業革命が資本主義を生んだのでなく、先行する農村での資本主義革命が資本家と労働者という階級を創出したうえで、産業革命をもたらしたのである。

資本主義の起源はイングランドの農業にあり、有名なエンクロージャー(囲い込み)も、羊のためというより、農地のより効率的な利用のため共有地が無理やり私有地にされたものだった。

したがって、都市で官僚行政や商業に携わっていた市民=ブルジョアは資本家の直接の祖先ではない、ということになる。

イタリアのルネサンスもフランスの絶対主義もヨーロッパ封建制度の内的発展形態であるが、資本主義を生み出すことにはつながらなかった。

フランス革命も、ブルジョアのための革命ではあったが、資本主義の起源にはならなかった。

フランスが資本主義化の波に取り込まれた後にブルジョワがどう行動したかは別の話である。

こうしたことの傍証として、通説のように都市文明と交易商業が連続的に資本主義に発展していったとすれば、ヨーロッパ以上に進んだ都市文明と交易制度を発達させた非ヨーロッパ地域に資本主義がなぜ生じなかったかが説明できないということが挙げられる。

資本主義は、イタリアルネサンスやフランスブルジョワ革命とは無関係に、17世紀のイングランドの片隅に生まれた農民の特殊な階級分裂から始まっている。それはある意味、偶然に支配された一回きりの現象だった

そしてそれを支配した資本主義的な競争と利潤蓄積という原理が、それ以前の社会形態(ルネサンス後のイタリア、革命後のフランスなど)のすべてを自らのうちに組み込み従属させていったのである。

次に現れる産業資本主義は、農業が資本主義化されて生産効率が著しく上昇し、少数の農業人口で大量の非農業労働力を維持できるようになったことを前提に可能となった。すなわち、多数のプロレタリアの生存が農業の改良によって可能となったので日常用品の大市場が作り出され、産業資本主義の可能性につながったのである。 植民地拡大の目的も領土拡大ではなくなり、市場の命じる競争の拡大と資本蓄積のためとなり、貿易品の主流も贅沢品ではなく安価な日常用品となった。

この間、産業的技術の発展の果たした役割は、一般に信じられているよりはるかに小さかった。

それより重要なことは、一旦、イギリスにこういうシステムが作動し始めると、フランスはじめ他の国家も類似の道筋をたどるように駆り立てられざるをえなくなったことである。

「ドイツ・イデオロギー」や「共産党宣言」の未熟なマルクスではなく、「経済学批判要綱」や「資本論」を著した後期の成熟したマルクスは、こう考えていたのだ、とウッドさんは言う。

最後にウッドさんは、人間の生命が直接に依拠する農業から資本主義が生まれて来たことは、資本主義が持つ人類社会にとって(邪悪で)破壊的である本質を意味するという。

その拡大の歴史を振り返るとき、資本主義の到達した巨大生産能力の利用可能性と、実際の資本主義が人々にもたらす生活の質QOL破壊との間には本質的な裂け目が生じているのが分かる。

資本主義はどんなに生産力を向上させ、その可能性を飛躍させても、大多数の人間のQOLを向上させることは決してしない。それはただ破壊するだけの存在である(そのことは3.11でいよいよはっきりしたのだったが)。

そこで、ウッドさんは最近の西欧(+日本)の左翼が「市場の規制を可能と考えている、すなわち、人間の顔をした市場がある」と希望を持っていることを批判する。

市場を規制して人々のQOLを向上させるという展望はますます非現実的になっており、残る選択肢は直接的に社会主義に移行するしかないのだ、と彼女は結論する。

この点については、「ルールある資本主義、さらにはそれを超える経済社会を目指す」「社会主義でも市場機能を活用するのは当然」という段階論で行動している僕たちとしては、ここ当分留保せざるをえない。

ただマルクス「ゴータ綱領批判」から「能力による格差の残る社会主義」と「それがなくなる共産主義」という2段階を社会主義に設定したレーニンの主張が100年目でようやく否定されたように、段階論というのはたいてい臆病の合理化なのだが。

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