アマルティア・セン「正義のアイデア」池本幸生訳、明石書店2011年のためになる「訳者解説」からノート作り・・・民医連総会明けの日直・・・マーモット・レビューの図10枚を複製、
岡山で開かれた全日本民医連総会に、準備を含めて4日間参加した。日常診療から離れてリフレッシュできるかと思いきや、行事のお世話役は思いのほか疲れるもので、ぐったりして帰ってきた。
帰ってみると、僕が主治医で重症肺炎を治療中だったが、出張の留守の間に人工呼吸に移行してしまった人の診察など重い日常生活が待っている。
総会終了の翌日、すなわち今日は日直。
さっそく寝過して、自宅のベッドから病院に自転車で直行し、売店で着替えの下着を買い、シャワーは当直室のを使って見た目だけさっぱりして外来に現れるなどという早業をやりながら、あまり気合が入らないまま、仕事を始めた。例によってレントゲンや血液検査など一人何役もこなして病院の中を行ったり来たりしている。
その隙間を縫って、マーモット・レビューのエグゼクティブ・サマリーhttp://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2011/07/post-ee52.html中の図10枚を「複製」した。
なぜ、「複製」かというと、pdf資料から図を抜き出す方法を知らないのと、自分流に複製して初めて理解できることがあるからである。
音楽ファンのなかに「耳コピー」という言葉があるらしいが、いってみれば「目コピー」である。
これは何のためにしているかというと、3月10日に宮城県塩釜市にある坂総合病院の医師集団に
「社会疫学による健康の社会的決定要因の探求は、健康権を単なる宣言から到達可能な根拠ある目標に変えた」
したがって「健康権の発展は、民医連医療を空想から科学に変えた」
「言い換えればこれまでの民医連医療は空想的民医連医療であった」と断言してくるためにである。
では、具体的に何をするのか聞かせてほしいと言われそうだ。
19世紀も半ばに社会主義は空想から科学に変わったとエンゲルスが小さなパンフレットで証明したのちも、社会主義の実現はまだ遠い先のことであるのと同じで、即効性のある答えなど準備しようがない、大事なことはこの認識である、と威張って答えようか。
そのようなことを自問自答していると、読み始めたばかりのアマルティア・セン「正義のアイデア」池本幸生訳、明石書店2011年には、詳しい「訳者解説」が付せられていて、センは
正義の完全正解となる定義を探し求め、かつそれを使って現実を裁断しようとしたロールズの作業を実は無意味なものと考え、それよりも目の前の不正義をなくす方法を重要だと考えた
とある。
これについては、訳者解説のメモを別に作るつもりだが、だとするとやはり「健康権が空想から科学に変わった」とだけ言って、具体的な行動を提案しないのは無責任だということになるだろう。ここはセンにならった態度をとらなければならない。
そもそも「健康の社会的決定要因」探究自体が目の前の不健康をどう解決するかという、センに直接示唆されたものだったのである。
今考えているのは、通常の医療の質の指標を健康権保障の指標に発展させることを通じて自分たちの病院の医療のあり方を変容させること。これがすなわちヘルス・プロモーティング・ホスピタルHPHになることである。
さらに、それを地域の健康権保障を測定する指標にも使って、地域診断をし、地方政治を変える手段とすること。福祉国家はその先に見えてくるだろう。
◎
さて、「訳者解説」のメモを残しておくことにしよう。訳者の東大教授 池本 幸生さんは、僕が繰り返し読み返している「リチャード・ウイルキンソン「格差社会の衝撃」書籍工房早山2009年の訳者でもあるので、とても親近感を感じる。
◯は引用、*は僕の意見である。
◯本書でセンは主流派の正義論を批判する。
その理由は主流派が理論的に完全な正義の定義を定めることから出発して、その正義に適った制度を構築しようとする姿勢を取ることが全く現実的でないとセンは考えるからである。主流派のそういう姿勢をセンは「先験的制度尊重主義」と呼ぶ。これに対してセンがしようとすることは、実際の世界に存在する明らかな不正義を取り除く方法を考えることである。
そのためには、現実と、そこから不正義を取り除いた状態を比較することが必要なので、これは「比較アプローチ」と呼ばれる。そこで得られる結論は不完全で体系的でもないが、それで十分役立つのである。
*これを健康権に当てはめることも可能だろう。
健康をしかるべく定義し、国際人権規約でそれを基本的人権と宣言するのは、上の主流派の正義の扱い方と同じである。 センに倣えば、実際の世界にある不健康を取り除くために、健康を阻害する要因のある状態(格差の激しい地域や貧困な地域や人々)とない状態(格差が少ない地域や富裕な地域や人々)を比較し、確かな阻害要因が何かを同定して、それがない状態に近づける方法を考える方が現実的ということになる。これが、WHOの「健康の社会的決定要因委員会」がしている仕事であ。
◯センの正義へのアプローチのなかで重要なのは「ケイパビリティ」という概念である。
これを潜在能力と訳したところから、日本での誤解が様々に広がった。ケイパビリティとは、「実際に何ができるのか」という可能性のことである。
*同じ1万円の鉄道切符を与えられた場合を考えてみよう。これをジョン・ロールズのいう「基本財」とすることができる。
健常者はそれを使って山口から福岡まで簡単に往復できるのに、障がい者は駅にエレベーターがあるなどいくつもの社会的条件・社会的援助が揃わないと山口から福岡まで行って帰れない。このことからも、同じ1万円の鉄道切符を持つだけでは障がい者に健常者と同じケイパビリティが保障されていることにはならないことが簡単にわかる。
平等を保障をする上で必要なのは、与えられる交通費の平等でなく、交通によってできること=ケイパビリティの平等である。
◯センがケイパビリティの違いとしてよくあげる例は、飢饉による飢餓と、ハンガー・ストライキの飢餓の違いである。同じような栄養不足でも、前者には死以外に待っているものがないが、後者には政治的成功で根本的な状態改善の可能性がある。
*ケイパビリティは、「利用可能な援助資源や機会」と表現することも可能である。
○これに対しジョン・ロールズの使う「基本財」という資源は手段を示しているだけで利用可能かどうか分からない。
○貧困とは「ケイパビリティ」の欠如としてとらえることができる。
○貧困における「障害」の占める位置にもっと注目しなければならない。身体的精神的障害を持つ人は単に世界で最も機会を奪われている人というだけでなく、しばしば無視されてきた。障害者の道徳的政治的要求が重要な理由は、障害の直面する困難の多くが社会の断固とした支援によってかなり克服できるものだからである。
*猪飼周平が、20世紀後半に障害者運動が、ケアに関する世界の価値観を、治療一辺倒からQOL第一に変えたと言っているのも、これを理解すれば納得できる。
○ケイパビリティには、個人の生活人としての幸福という側面と、必ずしも自分の幸福だけを追い求めるのではなく、自己の幸福を犠牲にしても他者を助けようとするエージェンシー(代理人と訳すべきか)としての自由の側面がある。
○有効な力を持つ人間にはエージェンシーたる強力な理由がある。
*エージェンシーには次のような意味合いがあるように思える
①代理人②行為主体 ③行動して変化をもたらす人③行動が達成したものが、その人自身の価値観を規準として判断される人 ④経済的・社会的・政治的に成熟した一人の市民の当然の役割 ⑤自由権→社会権を超えた新たな基本的人権の範疇たる「市民権(社会に参加し、社会を変える権利)」の担い手
*カントによれば、その理由は市民の「不完全義務」だと表現されるものかもしれない。
*エージェンシーの側面は健常者だけ、先進国の市民だけにあ手はまるわけではないが。彼らは自らのエージェンシーである面を強く意識することが求められるのは当然である。特に医師はそうだ。
○グローバル政府を持つことは現実には不可能だが、もし民主主義が公共的討議として徹底されれば、グローバル民主主義は不可能ではない。国境を越えた議論の促進には国連など積極的役割を果たすべき多くの機関があり、NGOや新しいメディアも果たすべき仕事がある。
*グローバル民主主義というのは柄谷のいう世界共和国と通じるものがある。
○reasoningは「推論」と訳される。推論は推理ではない。「すべての事実を考慮して、一つの結論に達する過程」を示す哲学用語である。
*診断推論、臨床推論の推論もこのように考えないといけない
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