岡山の大書店で松竹伸幸「レーニン最後の模索 社会主義と市場経済」大月書店2009を買ってすぐ読んでしまう。ソ連はILOのみならずWHOにも悪影響を与えていたはずだ
土曜日夕方の岡山ジュンク堂は閑散として誰もいなかった。
膨大な品揃えの本の森の中に一人で迷い込んだような気がした。本の整理は抜群によくて、探そうと思っていた池本幸生訳のアマルティア・セン「正義のアイデア」明石書房2012はすぐに見つかった。
本当は宇部に日帰りしようと思っていた岡山への出張だったが、明日も倉敷に行かなくてはならなかったので、そのまま泊まることにしたため、時間は余っていた。続けて、いろんな本を立ち読みすることにした。それにしても世の中には本が溢れすぎている。読みたいものが無数にあるということをこうして視覚化されると、60歳になっていつこの世からいなくなっても不思議ではなくなった身には毒というものである。
宗教の棚を見て妻が持っていた聖書の解説本を探している自分に気づいて急に淋しくなる。そんなことはもう意味がないのだ。
場所を移動すると、「レーニン」の文字が目に飛び込んでくる。ひょっとしたら、こっちの方を先に読んでしまうかもしれないと思いながら買ってしまう。コンビニで買い物をしてホテルに帰ると、果たして2時間あまりで読み終えてしまった。
補論の「ソ連崩壊は国際政治をどう変化させたか」が特に面白い。ソ連がアメリカと並ぶ世界全体の抑圧者であった、しかもアメリカに対抗するように振舞った抑圧者だったので複雑な被害を世界の闘う人民に与えた、ソ連に対する迷信は日本の共産主義者も含めてまだ十分に払拭されていないなどという主張は全く僕と同意見である。ヨーロッパが「ルールある資本主義」のモデルとされ、その達成は長い時間をかけて小規模な革命的変化を積み重ねて得られたものであり、その変化にもソ連は悪影響しか与えておらず、、変化の実際の担い手は社会民主主義者だったというのも賛成する。ただし、EUは帝国主義的側面を残しており、これをモデルに東アジア共同体を構想することはしないほうがよいと僕は思っている。松竹氏もそんなことはいわず、ASEAN諸国が作る非核非同盟の独特な共同体に関心を寄せている。そして、かって、それらの諸国の政権をアメリカの傀儡政権と決めつけていた日本の左翼の蒙を啓こうとしている。それも好ましい。
さて、本論では126ページと128ページが注目される。
レーニンの協同組合への熱い期待は、文化的な活動が政治や経済的な革命を先導するという期待だったとするのは医療協同組合という形態のもとに活動している僕には大きな励ましだった。
じつは、僕自身が医学生の頃に、蔵原惟人氏の「マルクス・レーニン主義の文化論」という新日本新書1966を読み、進んだ資本主義国では文化革命が政治革命・経済革命に先行する必要があるとされ、その担い手として民医連が挙げられていたので、大学病院に残らずまっすぐ小さな山口民医連への参加を決めたのである。
しかし、その記述の直後に「マルクスやレーニンが協同組合を重視したのは、当時のイギリスやロシアで協同組合運動が進んでいたからで、協同組合なんて周りを見渡しても見当たらない現代の日本に生きる人々が協同組合こそ大切だと思う理由はない」旨書かれている。
あっ、それはどうなのだろう。民医連だって本質は協同組合だし、柄谷行人だって遅ればせながら協同組合の意義を見つけている。松竹さんが役員をしている「かもがわ出版」もよく考えれば本質は協同組合なのではないか?
しかし、だらだらとこんなことを書いている暇は実はないのである。センの厚い本を明日の朝までに読み、ずっと昔からセンがどういう主張をしていたかは知っていたという顔で話しをするつもりなのだから。
○ もう一つ、この本から得た大きなヒントは、レーニンの影響を受けて設立されたILOがソ連が存在する時代には、その影響でいろんな面で手を縛られることが多かったが、ソ連崩壊後は生き生きと労働者の立場に立った活動ができたということに関連する話である。。
(一例は、ソ連では家事は女性がするものと決まっており、家事と仕事の両立を助けるということがソ連流の男女平等で、男女ともが家事にあたろうという北欧型の呼び掛けがずっと拒否されて来たが、ソ連がなくなると北欧型の男女平等 がすっと世界標準になったということがある。)
そこで、僕がこれから類推して証明したいのはWHOの健康戦略、特にソ連領内のアルマ・アタで宣言されたプライマリ・ヘルス・ケアにおいて住民の参加と自律という本質的な側面がソ連によりないがしろにされ、住民はひたすら受け身におかれるものとして策定されたのではないかという疑いである。英文で検索すると何件か 同様の趣旨の記事がヒットするのでおそらく正しいのであろう。
*プライマリ・ケアの方向を定めたアルマ・アタ宣言を見直してみると、どこも否定できないような美しい文言が並ぶ中で
第4条「人々は、個人または集団として自らの保健医療の立案と実施に参加する権利と義務を有する。」
第6条「プライマリ・ヘルス・ケアは自助と自己決定の精神に則り、地域社会または国家が開発の程度に応じて負担可能な費用の範囲で、地域社会の全ての個人や家族の全面的な参加があって、はじめて広く享受できうるものとなる。」とあるのが目につく。
参加と自律は保健医療の範囲内に閉じ込めて政治に及ばないようにしておき、各国の開発の現状を変えられない条件として承認すると書いているのである。
要するに与えられた政治・環境条件を変えないという約束で、予防接種など先進国や国内の先進地域から持ち込む改善に住民を動員するというのがプライマリ・ヘルス・ケアということになる。
旧ソ連がこういう条件WHOに押し付けたことは想像に難くないが、実際にそうだったのかどうかは、当事者へのインタビュー以外にはなさそうだ。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 雑誌 現代思想 6月号(2016.06.04)
- 内田 樹「街場のメディア論」光文社新書2010年(2016.05.11)
- 「『生存』の東北史 歴史から問う3・11」大月書店2013年(2016.05.10)
- デヴィッド・ハーヴェイ「『資本論』入門 第2巻・第3巻」作品社2016/3 序章(2016.05.04)
- 柄谷行人 「憲法の無意識」岩波新書2016/4/20(2016.05.02)
コメント
第6条の趣旨は、
医療を政治的道具に利用しないということです。
男女ともが家事にあたろうという北欧型については、
たぶん文面からして、家事&子供の教育について
ご自身、男女平等ではなかったと想像しますが
いかがでしょうか?
批判するつもりではありません、ちょっときになったので・・・・
投稿: redjun | 2012年4月14日 (土) 23時57分
コメントありがとうございました。
WHOの健康戦略が、プライマリ・ヘルス・ケアから、ヘルス・プロモーション、さらに健康の社会的決定要因対策へと、僕たちの古い用語では弁証法的に(否定の否定のルールで)変化しているのではないかと考えているのですが、誰か専門家に聞いてみたいと思っているくらいの段階です。第6条についてもすっとは理解できない文面なので誤解しているのかもしれません。
家事・育児の男女平等については、確かに自分を棚に上げて旧ソ連批判に賛成しています。
投稿: 野田浩夫 | 2012年4月15日 (日) 09時09分