« 1月19日から22日のこと・・・「災害ユートピア」 、「ショック・ドクトリン」、クリシェとしての「矛盾」、WHOの健康戦略の変化、清瀬市訪問、林神父の話、センの「脱集計化」 | トップページ | 中村 佑さんは僕の医療生協の組合員だった »

2012年1月28日 (土)

私の生協理事長挨拶

ひとつ前のブログ記事を完成する暇がなく、仕事に追われている。今日も当直をし、救急車を引受け、インフルエンザの患者さんを相手にさっきまで走り回りながら、明日の医療生協理事会の挨拶を書いていた。

結局、書きたいことはこちらに書いたので、その挨拶をここに記録しておくことにした。先週の出張の回顧はおいおいと記録して行こう。:

今年最初の理事会です。年が明けるともう6月の総代会に向けて準備を進めないといけません。特に今年は役員改選の年ですので大変です。熱心なご討議をよろしくお願いします。

医療生協の会務にはあまり関係がないのですが、この間、私にとっては畑違いの二人の話を聞く機会があって、いずれも感銘深いものでした。

一人は下関市の細江カソリック協会の林尚志神父という70歳代後半の元気な方の講演です。一時は宇部の教会にも勤められており、有名な米原ろしゅうさんなども援助されたようです。

カソリックの一派イエズス会は「弱い立場の人びと」の側に立って「誰もが大切にされる、正義にかなう新しい社会」を建設することを重要な使命と考えて、日本に三つの活動センターを作っています。その一つが「下関労働教育センター」です。その中心だった林神父さんが岩波書店から本を出したので

お祝い会が最近ありました。

林神父は広島でイエズス会立の中学の教師をしていた時があって、その時の教え子に今は東大教育学部で哲学を教えている川本隆史教授がいて、僕が尊敬している友人です。その川本さんがその場でお祝いの講演をすることになりましたので川本さんに誘われて、ほとんど無関係な立場で会にまぎれこんだわけです。

このセンターは下関で長い活動歴があるようなのですが、100人近くいた参加者のなかで私が知っている人は本当に少なく、85歳の開業医であるA先生、保険医協会のT前事務局長をかろうじて知っていただけです。A先生は下関の良心ともいうべき人で、センターの中心的支援者のようです。

護憲・反戦平和の立場でほとんど同じ方向で運動していながら、全く日常的な交流がない、これでいいのだろうかというのが私の持った感想です。なにか語り難い経緯が歴史的にあったのかもしれませんが、現在こんなに近い所で活動している人がバラバラでなく互いに結びつくようなネットワークを作らないといけないと強く思いました。

たしかにものすごい弾圧があった戦前や戦後の一時期では、官憲に捕まった時に拷問されて ―拷問の話はまたあとでするのですが― 仲間の名前を口にしてしまわないよう、活動家同士の横の交流は禁じられていましたが、今は全く条件が違う、人から人を介して知り合いが無限に広がるような運動スタイルの方が求められているのではないでしょうか。この話も後の話と関係してきます。

もう一つは、雪印乳業の酪農副部長をされていた65歳の獣医さんにお願いした山口民医連「宇部学」講話です。

宇部高校を卒業して、鳥取大学農学部にいき、雪印乳業に就職し定年で宇部に帰ってきて、最近私の患者さんになったのですが、被害者が15千人に達して雪印没落の原因となった2000年の集団食中毒事件に遭遇されていたのでその経験を話してもらいました。

社長が記者に付きまとわれて「私は昨日の晩眠っていないんだよ!!」とキレて呆れられたあの事件です。

この事件は当初大阪で患者が発生したので、大阪の工場の汚染が疑われたのですが、実は遠く北海道で、しかも3ヶ月前に、原料の脱脂粉乳を作っている工場に停電が起こったことが原因でした。停電中に黄色ブドウ球菌が牛乳の中で増殖し毒素を作りだしました。この毒素は加熱しても消えないものです。したがって原料はすぐに廃棄しなければならなかったのですが、ここの工場長は停電回復後何事もなかったかのようにラインを再開してしまいました。

元酪農副部長の方はこの事件から二つ教訓を引き出されているようでした。一つは1955年にも工場停電で同じような事故(八雲工場事件)を起していたのにその反省が何処にも生かされていなかった、実は組織として何も学んでいなかったということです。もう一つは、工場長には獣医がなるという慣習があったのが次第に壊れてきて、機械に強いので工学部卒の人がなる、あるいは経営を考えて経済学部卒の人がなる、そうなるときちんと食品の安全を考えなくなりやすいということです。

この話も、参加した職員には相当興味深く受け取られたようです。私たちがなにより大事にしないといけないのは医療の安全ですが、医療以外の産業における企業の教訓を積極的に学ぶことがやはり必要だ、常に視野を広く持たないといけないと思わされました。

 そこで、情勢ですが、お手元に「月刊保団連」20121月号の渡辺 治さんの論文をお配りしました。

極めて要領よく現在の情勢を説明していますのでぜひ活用して頂きたいと思います。

若干読みづらい構成になっているので、私が要らぬ解説をしておきますと、渡辺さんは、2011年には2つの「国民的体験」というものがあり、そしてそれぞれに二つづつ教訓があったと言っています。2×2という構成です。これがわかるとこの論文は読みやすくなります。

国民的体験の第一は「民主党政権の転落」です。2008年に政権交代が起こった時、ここまでダメになるとはだれも予想しませんでした。それでも、教訓その1として「運動の力で構造改革に歯止めをかける政権を作ることはできる」ということが挙げられます。高校授業料の無償化、障害者自立支援法の廃止、生活保護の母子加算復活はその成果でした。

そして教訓その2は「しかし、体系的に福祉の充実を進めないと構造改革は止められない」ということでした。ここで体系的な「新しい福祉国家構想」の必要性が浮上するわけです。

2の国民的体験は「東日本大震災と原発事故」です。その教訓1は震災・事故がこれほど深刻化したのは震災以前の構造改革のためだったということです。構造改革により日本全体が災害や事故に非常に弱い社会になっていました。そして、重要なことは、この災害を利用して一層の構造改革を進めようという勢力がいることです。ここでも、その対抗軸としての「新しい福祉国家」の必要性がクローズアップされます。

東日本大震災からの教訓その2は、少し変わった見方ですが、災害後の社会は人々が心を通わす連帯の社会が一瞬ながら姿を現したということです。誤解を恐れずに言えば、震災後数カ月、日本の人々は高揚し、ある意味幸福だったと言えないでしょうか。同じことをレベッカ・ソルニットという人が「災害ユートピア」亜紀書房に書いていました。これは「新しい福祉国家」が実現の可能性を持っている証拠でもありました。

 こうして二つの国民的経験はいずれも新しい福祉国家構想の必要性と実現可能性を証明するものでした。

 ここで、わたしはいま評判になっている一冊の本を紹介したいと思います。ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」です。 

 さきほど戦前の拷問の話を少ししましたが、イラクに置かれたアメリカの捕虜収容所での電気ショックを中心とした拷問は、捕虜が人格を崩壊させ、進んで協力者になるべく体系的なものに仕上げられています。恐ろしいことに、これをそのまま経済に応用しているのが新自由主義者による構造改革の実行計画です。新自由主義者はたえず大災害や暴動や内戦を待っています。それらによって国民が電気ショックにあったように茫然自失となった所を狙って、一気に新自由主義改革を進めようとするわけです。それ自体が抵抗しようという心を奪ってしまう原因にもなります。2007年に出版された本ですが、世界の実例を非常に詳しく書いています。相当長いものですが、一読を是非お勧めするものです。

なぜ、この話をするかという、渡辺さんも書いているように、野田内閣の4大課題は①TPP参加、②税と社会保障の一体改革、③原発再稼働、④普天間基地の辺野古移転ですが、これを実行するため極めて強権的・高圧的になっているのが今の野田首相の特徴だからです。

これはまさに大震災で打ちのめされ、原発事故でバラバラになった国民のショック状態を利用しようという、「ショック・ドクトリン」をそのまま地で行こうという姿勢にほかなりません。

国民の側は、この4大課題を阻む大国民運動を起こさなくてはなりませんが、渡辺さんは、運動に新しい大きな「固まり」が二つが存在していると言っています。一つはTPP反対運動で実現した、既成大組織が大合同してオールジャパンとなった運動です。もう一つは、原発反対運動で見られた、既成組織にとらわれない新しい運動です。「9.19さよなら原発集会」に見られたような、九条の会型の運動や、子育てしている母親や若者のネットワーク的な運動がそれです。これは、「ウォール街を占拠せよ」「私たちは99%だ」と叫ぶニューヨークの集会にも共通します。その時のナオミ・クラインの演説が「雑誌」世界2011年12月号に載っておりました。下関の林神父の活動を知る必要がある、また雪印乳業などで働いたことのある人の意見を聞くのが重要だと最初に私が申し上げたのもこれに関係しています。

こうした二つの新しい運動体を大事に育て、できれば「新しい福祉国家」を合言葉にして進もう、ということです。ナオミ・クラインはさっきの文章を次のように結んでいます。 「私たちは、この地球上でもっとも強力な権力を持つ相手にケンカを吹っ掛けたのです。それは怖いことです。運動が大きくなれば報復の怖さも増していきます。運動の標的をもっと小さなものにしたくなる誘惑、たとえばこの会場の隣の人に論争を吹っ掛けることで済ますというような誘惑、それは勝ち目があるし、怖くないのですが、そんな誘惑に負けないように注意してください。隣の人はみんな同志と思ってください。」

これが2012年の大局的な展望だと私は考えております。」

|

« 1月19日から22日のこと・・・「災害ユートピア」 、「ショック・ドクトリン」、クリシェとしての「矛盾」、WHOの健康戦略の変化、清瀬市訪問、林神父の話、センの「脱集計化」 | トップページ | 中村 佑さんは僕の医療生協の組合員だった »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私の生協理事長挨拶:

« 1月19日から22日のこと・・・「災害ユートピア」 、「ショック・ドクトリン」、クリシェとしての「矛盾」、WHOの健康戦略の変化、清瀬市訪問、林神父の話、センの「脱集計化」 | トップページ | 中村 佑さんは僕の医療生協の組合員だった »