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2011年12月14日 (水)

現場の憂鬱

ある夕方、気管支喘息が悪化した80歳まじかの患者さんが僕の外来に来る。別の医師が外来での主治医なのだが、副腎皮質ホルモンが内服で長く処方されている人でもあり、入院が必要と判断する。主治医は病棟の患者を持たない人なので、また一人僕の担当入院患者が増えてしまう。今のように入退院の早い回転の中で次々と担当患者を引き受けているといつか大失敗しそうだと少し不安になる。

それはそうとして、それよりも気になるのは、僕の外来にかかる前のこの患者さんのカルテ記載である。

同じ日の未明にすでに呼吸困難で受診しているのだ。

このとき診療しているのは、ベテランの指導医と研修医の組み合わせにしている当直医である。

研修医の字で呼吸音には異常がないと書かれているが、患者の苦しさは看護師の記録に明らかである。

「こうしていてもよくならないから帰る」といって、患者は点滴が終わらないうちに治療中止を求めて、その希望が入れられて帰宅となっている。その後ずっと呼吸困難が続くので我慢できなくなって夕方受診したのである。

指導医はどうしていたのだろうかと不思議になり、たまたま僕の前を通りかかったその指導医を捕まえて聞くと、

「早朝のことなので記憶にない」という。

その時そばにいたはずの当直ナースに問い合わせてもらうと、研修医と指導医は電話で相談し合っていたらしい。ということは指導医は患者のそばに来ていないのだ。

そのときの研修医の不安を想像する。

50歳半ばの指導医の午前6時の疲労困憊ぶりも目に浮かぶ。

そのあたりを研修医に責任を持っている後輩に相談すると

「呼吸音に異常がないと記載してあれば、実際に異常はなかったはずだし、指導医はあとで指導のサインをすればいのです。なにも問題ありません」となんだか判で押したような返事。研修制度のコンプライアンスの範囲内だという話をしているわけである。

全くすれ違っているのを自覚する。

患者の立場からみても、医療従事者の保全の立場から見ても問題がいっぱいのこの経過が「仕方がないこと、だからあたり前のこと」と思えてくるのであれば、自分の身分を含めての医療の安全を「医療崩壊」から守ることはできない。

現場は憂鬱なことでいっぱいで、患者との共感で満たされて感じられるはずの医療者の生きがいからは遠いと思える朝である。

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