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2011年12月12日 (月)

テリー・イーグルトン「なぜマルクスは正しかったのか」河出書房新社2011

エレン・メイクシンズ・ウッド「資本の帝国」2005は、グローバリゼーションの中にあっても資本は国民国家の常備軍に支えられているのであって、階級闘争の主戦場は相変わらず国民国家にある、敵が何か茫漠としたものの向こうに溶け去って行くわけではないのだ、ということを凛とした態度で主張する気持ちのいい本だった。

著者のテリー・イーグルトンも、訳者の松本潤一郎も知らない名前だったが、序文にエレン・メイクシンズ・ウッドの名前があったので、迷わず読み始めたのだが、おそらくこれを気軽に読みつづけられる人はいないだろうというしろものだった。

訳語もこれでいいのだろうかというものばかりでてくるし。

取り上げられる話題も最近の日本共産党とその周囲のマルクス理解を追跡している僕としては新奇なものはない。

苦労して読み終わったあとで書くこの感想も、出涸らしのお茶を飲むような気分である。

それでもいくつかのことはメモしておこう。

○が僕の感想である。

174ページ:革命は醸造するように長い時間をかけてなされるものである。
181ページ:社会主義革命は民主主義革命でしかありえない。

○フランスにしても日本にしても何度も顕在化しては隠れる民主主義革命の長い過程を経過中なのだ。
日本において源頼朝から徳川家康までの400年間断続的に封建革命が続いたのと同じように、16世紀ごろから世界は世界資本主義システムの深化の中で、民主主義革命を続けている。市民革命はその一部にすぎない。私たちが直面している革命は市民革命でもなく、社会主義革命でもなく、民主主義革命とよぶべきなのだ。
その終点が、社会主義の成立なのだろう。
その時期はもう百年、二百年は先かもしれない。

184ページ:窮乏化革命理論によって、もっとも社会主義建設が困難な、生産力の発展が遅れて政治的には残酷な圧政が続いている国でこそ、社会主義者による国家転覆が成功しやすいという歴史があった。それは歴史の皮肉としか言いようがない。そういうところで社会主義がいったん芽生えてもすぐ枯れるのはある意味仕方がない。

186ページ:問題はむしろ2008年のリーマンショックで現実化したように、資本主義が内部爆発して壊れ、幼稚な「社会主義」よりはるかに野蛮な状態がやってくることだ。それは、資本からガラクタを投げ与えられて飼い慣らされていた子分どもが自ら政権を取ってしまうことである。ファシズムに先例がある。じつはこのときこそ社会主義をめざす勢力が社会を救う。その方法は決して社会主義ではないが、その経験の中から、資本主義の廃墟のうえに万人に利益をもたらす新しいシステムのアイデア=社会主義の具体像を掴むことも可能になるのである。

197ページ:ルイ・ボナパルトは小自作農民の代表・表象=representation として票をかすめ取り皇帝になった。ナチスは中産階級下層の票を集めて独裁に至った。いずれも資本上層の利益のために権力をふるったのだが、国民にはそう見えたのである。

ルイ・ボナパルトは階級化した官僚による国家権力奪取、すなわちボナパルティズムの実践者とみられているが、ファシズムの先駆者としてとらえるのが本当は妥当である。同時に大阪の橋下は、大阪にあふれる吉本ファンを表象して票をかすめ取ったが、実際は旧態依然たる関西独特の権力、すなわち大資本と解同の融合物に奉仕する政治家・ファシストである。

○橋下の独裁を克服して野蛮から大阪を救済することの中にこそ、資本主義の廃墟の中から社会主義を作り上げるヒントをコミュニストは発見するだろう。たやすい仕事ではないが。

222ページ::マルクスにとって社会主義は生産力の拡張を要求するものである。しかし、その仕事は資本主義の役割である。社会主義は生産力の拡張を自らの問題としない。誤ってその道をとったのはマルクスではなくスターリンだった。社会主義は、資本主義の元で制御できなくなった生産力を人間の理性制的な制御の元に取り戻すことを役割とする。

○ここのところは原発問題などと照らし合わせるとピッタリと理解できるところである。

210ページ:1970年以降のポスト植民地主義について。上部構造から土台を解き明かそうという無駄な努力。サイード「オリエンタリズム」が代表。したがって強力な反マルクス主義の書物である。

○ここは、相当違和感のある話である。サイードのように政治的に共同でき、人間的にもこれほど尊敬できる人物をこんなに簡単に切り捨てていいのだろうか。

○一方、上部構造の独自性のみを強調するポスト構造主義は間違いだとするのは良い。柄谷も同様のことを言っている。

150ページ:学校や教会、テレビ局が上部構造に属していると考えるのは誤解だ。上部構造は建物や場所ではなくて諸実践の集合と考えるべきだ。

○上記につながる話でもあるが、これは正しい。

時間をかけて詳細を見て行けばそれなりに面白い本だということは確実である。

訳者の松本さんに希望するのだけど、誰かしっかりした日本のマルクス主義者とよく相談して、改訳したらどうだろうか。出版したばかりで申し訳ないのだが。

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