中井久夫「こんなとき私はどうしてきたか」医学書院2007・・・患者さんの心音を聞き、呼吸音を聞いているとき、患者と医師の共感の基礎が立ち上がっている
後輩の精神科医が貸してくれた本。
地元兵庫県での看護師さん相手の講演録だし、2度目の話もたくさん入っている。
少し興味を失いかけたが、妻の遺していた本のなかに上岡陽江+大嶋栄子「その後の不自由 『嵐』の後を生きる人たち」医学書院2010を見つけて、同時に読んでいると、40ページにこの本からの引用があった。
やはり読んでおかなくては。
その引用とは依存症の人はこれまで身体の手当てをされた経験が一度もない人が多く、言葉より、丁寧な身体ケアの方が有効なときがあるという話だった。「食べられないならおかゆにする?」と聞かれたり、そっと水枕を当てられたり、リストカットの傷をやさしく縫合されることに最後の救いがあったという人が多いのだ。
この本の69ページにも、落ち着かない患者も聴診器をあて、脈をとっているときには静かになると書いてある。
僕は毎日の外来で変化がないことが分かっている患者の身体診察を省略することが増えているのを反省した。患者さんの心音を聞き、呼吸音を聞いているとき、患者と医師の共感の基礎が立ち上がっているのだろう。どんなに忙しくてもこれだけはしておこう。
ただし、その共感を煩わしいと感じる患者さんもいるのは確かなので、そういう人は一瞬の内に見抜いて、なるべく早く診察室を出してあげた方がよい。それはこの間僕はずいぶん得意になった。
そのほか手を当てること、握手をすることも共感を築くのに似たような効果がある。便秘には格別の注意を払い、看護師が忙しいときは自分が摘便することもいとわない、これができると患者への共感は合格点だろう。
それよりも、僕が不思議なことだと思ったのは114ページに書いてある、中井先生とマッサージ師の関係である。難しい患者を扱って緊張している中井先生の筋肉の状態をマッサージ師が察知するのはある意味当たり前のことだが、あるマッサージ師は、特別難しい患者と連日取り組んでいた中井先生を一度マッサージした後、「先生の身体を揉んで何か妙な感じがして働けなくなった」といって3週間休んだというのである。そのマッサージ師の父親でもある別のマッサージ師は、「私たちはお客さんの病気を頂くのか命が短い」と言っていたそうである。
ずいぶん神秘主義的、あるいはトンデモ話的だが、びわこ学園の高谷先生が「自己は全身で構成されているのであって、大脳の中にあるのではない」といわれている話と照らし合わせると、身体の触れ合いから自己の変化が始まる、共感が始まるのも当然かもしれないと思えてくる。
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