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2011年11月26日 (土)

医療活動と医師養成の接点を意識的に設定する・・・地域包括ケアに仕組まれている脱医療化路線の反倫理性に抵抗することが大切だ・・・「Versatilist 地頭型多能人」に対する短い考察=本願寺は共産党に忠告すべきだ

標題のようなことがテーマとなった討論会に参加して、もちろん自分の考えを縦横に展開する機会は与えられないので、2012年以降の医療活動と医師養成を結びつける展望を僕なりの言葉でまとめてみたい。

A:情勢論:資本主義の深まりによる情勢の変化
貧困と格差の増大
超高齢社会
地域包括ケア構想=脱医療化の進行

*脱医療化の危険性は医療ケアが高まった人は早期に死亡させるべきだという思想をはらむところにある。

簡単に言ってしまえば医療難民の大量発生ということであるが、社会による医療的保護の遺棄というべきである。

「食事が自分で摂取できなければみんな餓死を従容として選ぶ西欧社会」、などというのは本当だろうか。

百歩譲って本当としても私たちの社会に適用できることだろうか。

医療福祉に関わる社会の価値観の変化(治療からQOLへ、パターナリズムから共同の営みへ)

B:理念論: 「健康権を中核にした新しい福祉国家づくりを」
その駆動力は社会疫学にある

社会疫学が「健康の社会的剥奪要因」を突き止めた。
正義と健康との関係が、社会全般の正義の前提としての個人の平等な健康という形で明瞭になったことから健康権が確立して行った。憲法解釈や国際人権規約などから健康を定義して演繹的に導き出す健康権論でなく、資本主義社会特有の健康を阻害する要因を帰納的に導き出す健康権論である。
正義をどう定義するかについてはロールズやセンの言説を参照することが不可欠になる。

同時に医療の最前線にいるものとしては、すべての政策の健康への影響評価を実証することが健康権の確立上大きな課題になることも明らかである。

*日本国憲法の中での健康の位置づけの発展 25条と13条の相補的関係の認識が情勢上重要となっている。

自由権を規制する社会権というだけでなく、社会権に支えられる自由権と自由権を貫いて実現する社会権という関係になっているので、両者の区別はなくなる。

→それらの作業の上に立って新らしい福祉国家構想を新自由主義的国家の対抗構想とする展望が生まれる。

そのために日本の「マーモット・レビュー」としての社会保障憲章案、社会保障基本法案を作り上げることが求められる。

C:具体的方針
1   総論:地域医療の自治と自律(地域医療の民主的形成、地域連携の発展として)

「この町の医療を市民の力でよくしよう」という住民運動と連携することが前提

2   重点実践課題
a 病院医療の洗練=「質の向上」QIの確定と測定が重要、救急医療の充実
b 地域ケア=在宅医療の拡大、小児科・産婦人科・障がい者医療・リハビリ医療の充実
c  安全、倫理、チーム医療などのコミュニケーション改善に関わる課題
d  まちづくり=住民との協力、医療機関の資源の地域への提供、地域経済の内発的発展への貢献
(この具体的な運動の一つがヘルス・プロモーティング・ホスピタルHPH運動だと言えるだろう)

D :総合医の養成を専門医養成に優先させ、  医師教育目標の画期的な変化を生み出す

診療現場での総合性
地域医療や日本の医療のあり方を俯瞰的に捉え、政策を考え、統一戦線を拡大して行く実行性

この二つを総合医の本質である総合性と呼び、そのような総合医を思い切って増やす。

では、医療にどうしても必要な専門医の養成はどういう方針を持つかというと、少なくとも医療全体への俯瞰的に視点を忘れないような姿勢は必要だ。

さらに一定長期間後の総合医生活後の専門医コース移行のシステムを工夫する必要はある。*

医師個人の内部的な総合性と、 医師集団の総合性と区別して考えなくてはならない局面もある。

*2011.11.26の集会で初めて知ったことをここで記録しておこう。一つの流行である。
Versatilistという言葉は、2005年にガートナーが初めて使った。 多能な人、専門分野を幾つも経験した人という意味だ。Specialist、Generalistとも違う、専門職に対して「多能職」とでも訳したり、「地頭型多能人」などとも呼ばれている 。何か一つの専門を目指すのでなく その時その時のニーズと状況に応じて、いくつもの役回りを演じられるというのが、今後のあるべきキャリアだという主張である。

*ここで「地頭」と書かれているのは、鎌倉時代の守護地頭(しゅごじとう)でなく、佐藤 優などがいう「じあたま」である。日本語は変わり続けているのだ。

**それにつけても思い出すのは、共産党が「地力」(じりき)をつけよう、といわず、「自力」が必要だと号令をかけていることである。

自力は他力(たりき)に対する言葉で、自分の修行で悟りを得ようという努力を言う。しかし、共産党が自力=共産党だけの努力で世の中を良くすることができるとは思えない。かならず、他の人との協力、すなわち統一戦線が必要なのである。もちろん、これを他力と呼ぶと、他人の協力を弥陀の本願と取り違えるという誤りに陥るので要注意。「自力他力統一戦線」などというのは阿弥陀様の冒涜なのである。

西本願寺は共産党とも仲がいいのだから、そっとその言葉の使い方がおかしいということを共産党に伝えるべきではないか。それが宗教人らしい態度である。

E:上記の実践を担う事業所の経営改善を医療活動の一環として進める

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