いま、普通の医師にとって大切なこと・・・いまこそ川上 武氏を思い出し、アマルティア・センのいう重層的、多面的アイデンティティの統合を図らねばならない
いま、普通の医師にとって大切なことは、医療人として貧困・格差・戦争と核の脅威の軽減に努力すること(社会的使命)と、住民の医療要求である総合的なプライマリ・ケアを提供すること(職業的使命)である。
というより、一見異質なその二つを結びつけて自分一身のなかに具現化することである。
もちろん一人でそんなことはできないから、同じ志の人と手を結ぶということが前提であるとしても、どうすれば二つが結びつきえるのか。
そもそも医療要求を「総合的」に捉えて全面的に応じる立場から出発すれば、、患者の生活全体を把握することが前提となり、そこには貧困・格差・戦争と核の脅威が決定的要因として貫徹しており、それに対する自分の態度も決まってくるというものである。
しかし、これではあまりに公式的見解であり現実的には何の役にも立たない。これはこれとして間違いないこととして、もっと役立つように考えを進めてみよう。
一人の医師の具体的な職業生活から見れば、総合医であることはどのようなレベルにおいてもたやすいことではない。
ちっぽけな診療所においても、「雑多で未分化な症状」という患者との出会いの中から、重大性、頻度、生活への影響などいくつかの診断軸を立てて、臓器・細胞・分子方向の診断に向けて合理的な思考を働かせなければならない。
一定の診断がつけば(診断がつかない段階で同時進行でということもありえるが)、その先の精密な診断や治療や患者の援助に向けて、他の医療スタッフ、医療機関や社会的資源の動員を合理的に展開する仕事が待っている。どの病院のどの医師に紹介するか、社会制度の利用には誰に相談したらいいかも的確に行えた方がいい。
これをどんな訴えや症状や患者においても行うといいことが「総合的」という意味なのである。
重層的で、多面的というにふさわしい難しい作業である。
ただし、それも様々な条件で免除される領域も多いので、よく見極めれば恐れることはない。
都市の診療所ならば小児科や産婦人科的な問題は扱わなくても済むだろう。その需要に対して事実上無医地区になっているのにその問題を無視するのは卑怯であるが、専門家がいて需要を満たしている時に力んで自ら手を出すのは滑稽というものだ。
しかしどこでも高齢者患者は多く、その人たちのための内科と整形外科の知識は必須になる。なかでも癌の診断と在宅医療の場における患者援助の要求は年々高度化していく。難しそうに見えて、自分が責任を持つべき領域のミニマムは自然に分かるから、そこからスタートすればいいのである。
同時に、周囲の医療機関や行政のあり方に対して鋭い批評家であろうとする努力は最初から必要である。そうでなければ、現実を踏襲するだけに終わって前進はない。
そのとき、一人の民主主義者として普段から養ってきた貧困・格差・戦争と核の脅威に反対し向かい合う姿勢が、考える枠組みとして生きてくる。
実、ここのところがこの文章での新しい主張なのだが、現在の総合医には臨床家、実践者であると同時に、かっての川上 武さんのような医事評論家であることが必要だと言えよう。郷土史家レベルの文筆人として医事評論家であることが望ましいが、少なくとも発話による批評家でなくてはならない。酒の席でよくしゃべるというのでいいが、しゃべる中身が家族の自慢や愚痴や噂話ではだめだ。
このように、なすべき作業の重層性、多面性に照応して、自らの中にある重層的で、多面的な複雑なアイデンティティを、一体のものとなるよう統合していくことが求められるのである。
そのことは、実はアマルティア・センの最近出た日本語訳の講演集(「アイデンティティと暴力」勁草書房)とつながっていくのだが、それは項を改めて書くことにしたい。
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