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2011年10月19日 (水)

弥陀の本願 と 加藤周一

広島県の浄土真宗地帯の生まれで、曾祖父は真宗の寺院から婿入りしてきた人だったので、僕の子ども時代の朝夕は仏壇の前にあった。父が広島県神社庁にも役職を持つような宮司になった始まりは、戦争直後の村落共同体の協議の結果で、よく誤解されるように伝統的な神道の家の子どもだったわけではない。

先日、年老いた伯母に会うと、5歳にはならない僕が路傍の地蔵さんに花を上げてお経の片言をつぶやいていたのを聞いたと言っていた。

映画「黒い雨」(今村昌平)での川原の火葬のシーン。煙にさらされながら北村和夫が蓮如の「御文書」を読み上げる場面で出てくる。なかでも「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という言葉を朝な夕なに聞いて育ったものだったので、いまさらにこの映画が広島を舞台にしたことを思わせられたものだった。ただし、この映画の農村のシーンは広島ではなく、岡山県で撮影されている。確かに岡山から米子に向かう伯備線のもっとも標高が高いあたりの風景は、自分の村の実際以上に、故郷らしさをたたえている。

連想があちこちに行ってしまったが、そういうお経の片言の中で、僕の中に沈澱しているのは「弥陀の本願」という言葉である。

先日、加藤周一「古典を読む23 梁塵秘抄」1986岩波書店を読んでいて、それが阿弥陀如来が師の前で立てた誓い、すべての人を救済するという決意であるという意味だと初めて知った。迂闊な話である。

彼の誓いが実行されるので、私たちは信じようと信じまいと救済されるのである。

その救済が本当にあるのかないのかは誰にも分からないが、救済があるとすればそれ以外にはありえないのでそれを信じようというのが親鸞だった、というのが、僕が加藤周一から学んだことである。

中世以来のさまざまな不幸、原爆での大量死、そして今年の震災のことなどを次々考えると、世界は不条理な死で満ちており、それをなかったこととして忘れて何かしらの希望を抱くなど狂気の沙汰、愚かさの極みと思える。

弥陀の本願があると思うことでのみ、僕らは僅かな正気と、不条理を少しでもなくす勇気を保つことができるのに違いない。

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コメント

「弥陀の本願があると思うことでのみ、僕らは僅かな正気と、不条理を少しでもなくす勇気を保つことができるのに違いない」の部分は、僕が数十年も悩んでいたことをあまりにさらりと言われてしまって・・・。すごいですね~ちなみに私は真宗の寺の子に生まれました

投稿: とおりすがりの民医連職員 | 2011年10月19日 (水) 18時02分

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