共感と理解の難しさ・・・非正規雇用労働者の直面するある困難について
家族の不幸の後、医師である僕と次男は間もなく仕事に復帰したが、非正規雇用で働いていた長女と長男は仕事が続けられなかった。
この過程の中で、僕は長男が妹(長女)に対して見せた心理状態への洞察と援助の仕方に感心させられて頼もしくも思った。仕事を続けられないという長女の感情への理解を言語化して、どうであっても支え続けるという姿勢を見せることが大事だと長男は言って、僕にはそれが若干不足していると指摘したのだった。
自分が元気のない娘の姿を見たくないので、「元気になれ」「仕事はしたほうがいい」と言っているだけのような気がする、とも言った。それは当たっている気もした。
そこで、僕が反省させられたのは、僕のような立場から非正規雇用で働いている人たちの気持ちを理解することが本当に可能なのかどうかということだった。僕は大学医局に残ることもなく、医師としての通常のキャリアを積むこともなく過ごしてきた。それでも中規模病院の院長になったし、今は法人理事長を務めている。医師になって以来、人に使われる立場にいた期間は数年しかなく、たいていは雇用する側に立ってきた。仕事をするといっても、自己裁量をフルに振るえる立場でのことである。口を利きたくないときは利かないで済むし、見たくないことは見ないで済ませられる。
ガヤトリ・チャクラボルティ・スピヴァクも言うように、自分の見たくないことに目をふさいでいられることを特権というのである。
非正規雇用労働者が人生上のさまざまの困難に直面して、必要なモーニング・ワークの時間も環境もない中で生計に追われて働くことこそ非人間的だという認識を、ごく自然に獲得するには僕は相当不利な位置にある。
そういう意味で、これまで「働くものの医療機関」を建設する医師として生きてきて、その看板に実は偽りがあったのではないかという問いを今つきつけられていたのだ、ということに気付いた。
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