新しい「死の商人」
1970年代中ごろから1990年代前半にかけて日本全体に投機行為が横行し、医療機関経営者の中にも、本業の発展をそっちのけでそれに没頭する人が現れた。彼らは投機で稼いだ金を医療につぎ込んで理想的な病院を作ると妄言を吐き続けて自滅した。彼らの医師観は高い検査機器を玩具として与えれば文句を言わなくなる幼児のようなものということだった。
いままた、介護や住宅で利益をあげて医療という本業を忘れようとする医療機関経営者が現れている。彼らの医師観はもっと徹底しており医師抜きで医療が成立し、実のところ医師はいらないというものである。
いつまでも医師を中心にした医療という外被、あるい虚構にすがりつく必要もなく、むしろ医師などという意識の遅れた部分はさっさと振り落して介護を中心した事業を進めればいいと思う人物が現れるのも、突飛なことではない。
たしかに医者なしでも、病院なしでも、医学の進歩なしでもギリギリのところ社会は成り立つが、看護師やホームヘルパーなしには成り立たない。病気の治療がなくても、看病があれば、また生活の世話があれば人は満足して死ぬだろう。
そういうことが、先駆的に上記のことにも表れているのである。
しかし、上に「死ぬだろう」と書いたことが重要なのである。看護師やヘルパーはつまるところよりよく死ぬという場面で役立つだけである。
そして医師抜きの医療というのは結局「死を商売道具にする」というだけのことである。それを推進する医療機関経営者とは、新しい「死の商人」である。
よりよく生きるには医師の力が欠かせないということだけを手がかかりに、医師は医師で自らの運動を構築すべく努力しなくてならない。
私は、それを民医連運動第2波と呼んで真剣に考えてみることにした。医師が21世紀にどのような独自の足場で社会の進歩に役立つのか、ということである。
それは、医者が集まって走ったり歩いたりするという洒落たものではないだろう。
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