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2011年10月24日 (月)

保団連地域医療交流集会(大阪)に参加 猪飼周平講演を聞く・・・健康権について追加すべきことがあるのに気づいた

10月23日日曜日は早起きして大阪に行き、上記に参加した。このブログでも6月14日紹介した「病院の世紀の理論」有斐閣2010年の著者である猪飼周平氏の講演を聞くのが主たる目的だった。

講演内容は今年2月に聖路加看護大学で開かれた「30年後の医療を考える会 市民公開シンポジウム」でのものとほぼ同様で、その大要は

で理解することができる。
僕が注目したのは
「治療(一辺倒)モデルから生活モデルへ」
「キュアからケアへ」
「延命第一からQOL第一へ」
という21世紀の医療ーヘルスケアの変化が、決して一時的な超高齢社会への対応の必要性から生じたのではないという猪飼君の主張だった。
それは社会の価値観のシフトだという認識が重要だと彼は言った。
そして、それは医療ーヘルスケアの内部からもたらされたことでなく、その外部から来たのだ。
治療中心の医療は失敗していないし、これからも重要な課題が山積している。にもかかわらず、治療中心の医療は、大きなケアのごく一部にすぎないというところまで社会の認識が長足の変化を遂げてしまったのである。その震源地は障害者ケアにあった。
ではこれからの医師にはどういう役割があるのだろう。
医療と ヘルスケアの代表者という地位を退いて、治療中心の医療に閉じこもるか、治療と生活、キュアとケア、延命とQOLを橋渡しする存在として新たな役割を発見してヘルスケア全体に関わるかである。
ヘルスケアすなわち保健+医療+福祉が一体でなくてはならないとき、医師が医療だけに閉じこもるのは退歩としか言えない。あくまで、踏みとどまって、ヘルスケア全体の前進に貢献すべきである。
そのとき、中心になる能力はコミュニケーション能力とソーシャルキャピタルとしての地域の力の構想力である。
会田薫子さんの本をもとに人工呼吸器や胃瘻の検討をした時も、医師のすべきことは科学的な病状説明に基づく医師と患者・家族の「共同決定」の実現だった。いま、その能力が求められているのである。
僕流に少し言い直しているところがあるのだが、
「完全な自己決定などあるのでしょうか。借り物の社会の規範を使って自己決定していると錯覚しているだけではないのですか。医師の側からみれば、憲法25条の生存権には責任を持つが、そのほかは憲法13条の幸福追求権にもとづいて自分で勝手にやってくれという突き放しです。認知症の患者『自己決定』に過度に依存することなく、医師を交えた共同決定を目指すべきではないのですか」
という意味のことを猪飼君は言った。
また、地域の結びつきがソーシャルキャピタルとして無理なく機能していくには、強制によることは無理で、地域のヘルスケアが意識的に地域の人々を緩やかに結び付けていくことが自然だが、そのコーディネーターに医師もなることができる。
さて、以上のことにもとづいて、僕は健康権について、健康の社会的決定要因を探求した社会疫学の成果によって成立したと最近述べたことを少し修正する必要がある気がしてきた。
それは、健康のよって来たる所についてではなく、健康の目指すものについてである。健康の目指すものは、センのいう潜在能力の発揮=機能ということに尽きるのだが、いまの日本では「QOL」と呼んだほうが分かりやすい。
社会疫学に基づいてなされる正義概念の健康への拡大と、QOL重視の社会的価値観変化の二つが、基本的人権が生存権のままでとどまることを否定して、健康権に進まねばならないことを示す駆動力なのである。

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