会田薫子「延命医療と臨床現場 人工呼吸器と胃瘻の医療倫理学」東京大学出版会2011 ノート・・・消極的安楽死は議論せよ、ただしそのことが積極的安楽死に道を開いてはいけない
2007年以降急激に進行する超高齢社会の中で、私たちは死をどう看とるかという上での様々な倫理的問題に立ち向かわなければならない。
現在、その問題の中心になっているのは人工呼吸器と胃瘻である。
その問題を初めて深く掘り下げた単行本がこの本である。
もとより要約は大の苦手だから、この本を読んで僕が考えたことを以下に恣意的に記録しておきたい。
Ⅰ どうしたら脳死あるいは遷延する昏睡患者の人工呼吸器を取り外すことが可能とな
るのか
○「共同の営み」としての臨死患者家族ケア
柏木哲夫.(2005)[死を看取る医学―ホスピスでの経験から」.日本病院会雑誌.2005;52:1626-1645などから。
臨死患者の家族ケアの三大要素として「予期悲嘆のケア」、「死の受容への援助」「死別後の悲嘆のケア」が挙げられる。
①「予期悲嘆のケア」では、患者家族は医療者からの理解と支持と慰めを必要としており、家族一人一人が「悲しみを十分表出できるように」医療者の傾聴姿勢が重要である。そのさい、語りを聞く時間の長短には無関係である。
②これが医師にとっては固有の業務だと思えるが、「死の受容への援助」の中で重要なのは、家族に患者の病態を明確に説明することである。少数の医師は、脳死診断を明確にし、その後の延命治療や治療中止に関する意思決定を家族と共同で行っている。
そのように脳死診断を正確に行うかどうかは別にして、医師からの真実に基づいた説明とそれに基づくコミュニケーション、共同の意思決定が決定的に重要である。
これは臨死患者家族ケアの中核にも「共同の営み」があることを意味している。
③そして、いまの僕にとって重要なのは、「死別後の悲嘆のケア」においては、突然の不条理な死のケースにおける家族の後悔、怒り、悲しみの格別な大きさに注目しなくてはならない、ということである。この場合、悲嘆プロセスは著明に延長する。患者の死亡の経過、死別の状況自体が家族のその後の経過に大きく影響し、身体・精神症状の原因の恐れが強くなるため、そのグリーフ・ケアについてはすべての医師が意識的であるべきである。
○世界のトップジャーナルであるCritical Care Medicineの2006年の特集号でも、医療者と患者・家族間のよりよいコミュニケーションが終末期医療改善の最重要項目に挙げられている。
○人工呼吸器を装着することも外すことも家族と医師のたゆみないコミュニケーションを前提に論じられることである。
○ 川崎協同病院事件のなかで、抜管後に患者が体をのけぞらせるように苦しみ始めたことに対して「楽にしてあげますね」と言いながら、須田医師は筋弛緩剤を注射して死に至らしめた。
幾らか疑問が残るが、須田医師と家族のコミュニケーションは良好で、「すでに脳死状態なので抜管により速やかに死亡をもたらすことが望ましい」という方針が医師と家族の共同のものになっていたとしよう。
では何が問題なのか。第一に抜管後に体をのけぞらせるように苦しみ始めたこと自体が、患者が脳死状態ではなかったことの証拠であるということである。となると、抜管行為前のコミュニケーションは誤った情報のもとに構築されたものであり無効ということになる。
その後の死亡に直結する筋弛緩剤投与が殺人行為であることは明白である。
第二に、さまざまなことを譲って、抜管という段階までは正しかったとしよう。そのときは、その後に患者に苦しみを与えたという点での須田医師の技術の拙劣さを指摘することもできる。治療の中止や差し控えがもし許されるとしても、それ自体が患者の苦しみを増大させるということは許されないということがこの話から引き出される。
ここで本筋から離れるが須田医師があらかじめ筋弛緩剤を注射して抜管後の苦しみをマスクしてしまえばどうなのだろうか。問題は隠されてて何事もなかったように終わった可能性が出てくる。
これは一つの問題を提起している。すなわち【消極的安楽死=治療の中止や差し控え】と【積極的安楽死】の違いである。消極的安楽死はこの時代に投げかけられている問題だと私たちは感じているが、背局的安楽死は検討する余地がないほど間違いだと思っているわけである。
積極的安楽死を闇で行わないため弛緩剤投与は治療中止に際しては用いてはならない、という決まりが必要になりそうである。筋弛緩剤投与による患者の安楽化を禁じることが必要だ。患者はそうした方法を使わなくても自然に安楽に死亡するという保証を与えられなければならないという制約を設ける必要が出てくる。
○では医師と家族とのコミュニケーションが事実に基づいてかつ良好である結果、共通した結論が得られ、そして人工呼吸器を外した時も患者の安楽が保たれるなら、外していいとしていいのであろうか。
そこにはもう一つの重要な制約が必要となる。上記の合意が、人工呼吸を続けたいと思う別の人にとってなんらの心理的圧迫にもならないという確固とした保障である。これは単に一組の医師ー患者関係では決められない、背後の利害関係者全体を見なくてはならない問題なのである。
「これほどまでに周囲に負担をかけて人工呼吸器をつけておく権利があるのか。多くの家族はさっさと死を合意をしているのにあなたはいつまでエゴを貫くのか」と別の人が責められることが全くないような保障がなされなければならない。
Ⅱ 胃瘻について
終末期の人工的水分・栄養投与が無意味・有害であり、脱水状態のほうが患者の苦痛が圧倒的に少ないことが医学的には明らかになっている。にもかかわらず、社会的に合意が形成されていないため、不必要なことが漫然と継続されているのが現状である。
問題は終末期の定義が困難であることで、治療の効果がないことが終末期としか言えないという矛盾もある。
そこでtrial therapyという方法が著者の提唱するところであるが、どこまで定着することはこれからの課題である。
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