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2011年10月29日 (土)

憲法13条の斬新な捉え方と浅すぎる健康観及び介護保険的医療保険の陳腐な発想・・印南一路「生命と自由を守る医療政策」東洋経済新報社2011・・・基本的人権の新たな組み換え(自由権と社会権、という分類から離れて)が面白い

やむをえない事情で、全日本民医連学術運動交流集会2日目は早退した。渡辺 治さんの講演が聞けなかったのは心残りだったが、急遽飛び乗った新幹線の中で、不安を押し隠すようにして読んだ上記が意外に収穫のあるものだった。

もともとは、全日本民医連の副会長をしている大山君(川崎協同病院院長)が紹介してくれた本だった。「きちんとした批判が必要だと思うのだが、読んだらどうか」と彼は言った。

主張は簡単である。

主題は憲法13条である。「全て国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」 13条は基本的人権の入り口である。一般的には、自由権の代表としての「幸福追求権」を規定したものと解釈されている。

印南氏はこれに反論する。

前段は、封建主義的な個人の集団従属をきっぱり退け、個人が国家や国家以外の権力に対して優先することを高らかに宣言し、同時に個人相互の尊重と自律を重視することも含めて述べていると見て、憲法ないし基本的人権全体を貫く規範 あるいは指導原理だとする。

そして後段は社会的生命権と幸福追求権がそれぞれ独立して規定されている、とする。独立して、というところが重要である。

社会的生命権は基本的人権の基幹である。なぜなら、生命なくして全ての人権はありえないからである。社会的生命権は、社会保障に先行する「人間としての安全保障 」を規定しており、具体的には救命医療が全国民に平等に保障される根拠となる。単に生命権といわず、社会的生命権というのは、実効につながらない「規範」ではなく、具体的に個人が生命の保持を国家に要求することを保障する点を社会権だとするからである。

そもそも自由権、社会権という 区別は歴史的な発生順に過ぎず、本質的な区別ではない、というのも極めて新鮮である。

一方、後段の後半の「包括的自由と幸福追求権」の規定は、将来に発生する新たな人権をすくい取るための補完的な項目に過ぎない。

ここで展開される、自律と自立の関係の解明もユニークである。自立とは他人に依存しないことだが、他人に依存しないで生きている人間は存在せず、必要な自立は自律できるレベルにすぎない。また自律、すなわち自己決定も、完全な自己決定を行っている人間は存在しないので金科玉条とすべきではないとされる。障害者に求められる自立も、他人の助けをかりて自己決定でることが目標となるのであり、他人の力を借りる程度を減らすことは目標とは無関係のことなのである。

生命権と憲法25条の生存権の関係についても印南氏は独自の見解を展開する。

憲法25条で保障される生存権は生命権を前提にしたうえでの補完的な生活権 のことである。医療に関していえば、救命医療以外の「自立医療」の保障の根拠となる。

印南氏の主張において特筆すべきは、生命権をすべての基本的人権の基礎においたことだ。それは 憲法13条は通常信じられているように「自由権」の条文でなく、社会権の中枢なのである。

しかし、この本の核心は次のところにある。

救命医療は生命権を実現するものとして無条件に平等に保障されるべきだ。 しかしそれ以外の医療は生活権にもとづく自立支援医療であり、基幹的な人権には属さない。したがって自己決定と自己負担を原則として、場合によってありうる公的資金負担の割合には優先順位をつける必要があるという点である。これが印南氏の本音である。

したがって、これをどう考えるかが、この本の中心的課題となる。

それを論じるのは、少し後にして、僕の個人的な思いを書くと、本書の展開事態には好感を持った。

人権を論じるにあたって、日本国憲法に基づく議論に続いて、法律論議からいったん離れてより根源的に「現代正義論」から考えるという章をわざわざ設け、そこでは比較的詳しくロールズやセン、彼らに対立するリバタリアニズムの考え方も紹介しているからである。

また、なぜ人間は人間であるだけで基本的人権があるのかという最大の難問に、それは思想からは解放された「公理」だと断言している(188ページ)のも好感が持てる。それは都留文化大の後藤道夫氏が「能力の共同論を唱えている岐阜大の竹内章朗だって最後の最後まで行くとそういう信念、あるいは断言しかない。自分もそうだ」と言ってくれたことに重なる。実は、僕はこの問題を30年以上、ああでもない、こうでもないと考えあぐねているのである。鈴木 茂さんや尾関周二さんを一所懸命に学習したのも、「人間の生得的な社会共同性」のという概念の中にその答えがあるのではないかと考えたからだった。

そして、民医連の健康権の討議のなかで、センやロールズを基にしなければ議論できないのだと委曲を尽くして僕が話しても、誰からも関心をもたれないままできたのだが、印南氏はなぜ医療が基本的人権なのかというところで、彼らの議論を踏まえねばならないことをしっかり認識している。

そういう意味では、結論は180度違っても、考える道筋の上での同志がここにいるという気がする。

さて、印南氏の主張の最大の論争点は、健康の決定要因をどうとらえるかである。143ページからのコラム「健康格差が問題か」によくあらわれているように、印南氏も社会疫学の成果の存在を知らないわけではないが、それにはごく軽く触れるのみで「健康は社会経済的にある程度決定されるものであると同時に個人の選択の問題」だとする立場に固執する。

健康概念はあいまいか、WHOが言うように理想的過ぎるかで、どこまで健康を求めるかは国の介入すべきところでなく、個人の選択にかかるとされる。

そして選択の問題で彼が取り上げるのは、喫煙か飲酒かに限られている。低所得者の喫煙率が高いという事実には言及するが、これを「愚行権」の一部だとする。健康より他の価値を重視しているのだといういいかたでこの事実を「弁護」さえする。

印南氏は喫煙がなぜ低所得層に集中せざるをえないのかという深いところは見もしない。喫煙だって、広義にとらえれば健康の社会的決定要因なのである。

また、所得や安定雇用など狭義の社会的決定要因についていえば、その影響はイギリスの安定した公務員層においてさえ、寿命に及ぼす影響において、喫煙その他の生活習慣の2倍に達することも印南氏は無視している。

実は、健康を決定する要因についてはあいまいさはほとんどなく、個人が保障されるべき健康のための条件も相当普遍的に設定しうるのである。

巻末に掲げられた膨大な参考文献の中に、社会疫学の著作は一冊もない。マイケル・マーモットも、リチャードウイルキンソンも、イチロー・カワチも、WHOの「健康の社会的決定要因委員会」の報告書もない。これだけ博識な著者が目を通していないわけがないので、意図的に無視しているのだろう。

これでは生命権や生活権を包含して、基本的人権の根幹となるべきだろう健康権について論じることはできない。

こういう姿勢から、医療を生命維持のため必須な救命医療と、そうではない自立医療に分けて考えるという、この本の突飛な考えが生まれてくる、といえる。

現場の医療者はこの論立てを嗤うだろう。救命医療が必要になる疾患は、自立医療が対象となる疾患の中から発生してくる。それを分離することなどできないのである。分離できるとすれば、僕にはよくはわからない領域の、美容形成や、優生学的な遺伝子操作などというものが想定されるだけである。しかし、一見贅沢な医療にすぎないとみられる審美的な形成外科も、顔面の外傷や熱傷などの患者にとっては社会復帰の可能性がかかる重大性をもつので発達してきたのだろう。

印南氏の主張がこのままでは、憲法25条を根拠に医療保障の徹底を要求する人々の努力を嘲笑する道具として利用されるだけである。

そこで、僕の当面の結論を書いておきたい。

もし、印南氏が健康の社会的決定要因を論じた社会疫学の成果を十分取り入れて、憲法13条に規定されて、すべての基本的人権の根幹となっていると彼がみなす「生命権」を、あらためて科学的な「健康権」に置換するのであれば、その理論全体がきわめて斬新で有意義な基本的人権解釈と変わるし、世界の正義論のなかで、ロールズやセンの主張を強化するものとなるだろう。

そして、そういう作業を印南氏に代わって僕たちがすることができるとしても、僕たちは印南氏に深く感謝することになるだろう。

それくらい、刺激的な内容は持っている本だったわけである。

*356ページで著者は、医療の2区分を介護保険にも応用して①救命介護②自立介護③それ以外の介護とわけるというアイデアを提唱しているが、①救命介護などというのはまったく奇妙である。

このことは、逆に考えて、救命医療と自立医療を区分するという著者のアイデアの源が、実は現行の介護保険の要介護度区分にあったことを物語っている可能性も示唆する。

相当可能性は高いが、だとすれば、陳腐としか言いようがない話になってしまう。

**一方、359ページに著者が2007年に実地に行ったという高齢者の医療処置への意思確認調査は貴重なデータを提供している。胃ろう造設の40%は本人の意思確認が不十分で、5.3%は家族の意思確認さえなかったという。これは現場の実感に一致する。

*** 救命医療に関わる医療提供体制について、民間医療機関任せにせず、国が責任をもって計画的に医療機関を配置し、医師・看護師を養成する必要があるとしているのは常識的で妥当と思える。

救命医療に従事する医師を、地域医療に従事する医師を自治医科大学が良い形で担っているのに似た方策を構想しているのは面白い。「救命医科大学」とか「国立大学医学部救命枠」というネーミングにするのだろうか。

**** 救命医療を全国民に平等に保障する代わりに、離島などそのための費用が大きくなる人々には本土移住を説得し、応じない時には救命医療保障はしない可能性もある、としているのはどういうものだろう。費用を最小化することを優先するなら、ついには、全国民を高層集団住宅に収容してしまえばいいということになるだろう。ある人々がある地域に住んでいるのは歴史的背景もあり、そう容易に介入していいはずはない。アメリカのインディアン居留地や、スターリンの民族強制移動を連想させるものがある。印南スターリン主義というべきか。

***** 自立支援のための医療には優先度が設定され(これが介護保険の要介護度認定からもらってきたアイデアだというのは上に述べた)、自助努力が医療保険加入の用件になると述べるところ(421ページ)こそ政策的には印南氏が主張したいところである。酒やタバコを吸っている人は公的保険使用を制限するとする。国民皆保険の解体、それに伴って必然的なものになる民間医療保険の導入こそ政治的な側面での印南氏の中心的な主張である。実は民間医療保険には反対すると書いてあるのだが、そうだとすると論旨が一貫しなくなる。

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