ある誤謬ー「上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す 」
書く必要もないと思うことなのだが、たびたび僕の周囲で語られており、僕もその場の空気を読んで発言してこなかったので、一応記録しておく気持ちになった。
最近、上記の言葉を二回聞いた。
一回目は、私が属する最も狭い医師集団の会議で、あるベテラン医が若手の医師の抱負に対して着けた注文だった。「君は最初から上医を目指しているように聞こえる(それではだめだ)」
二回目はつい昨日、500人以上集まった集会の分科会で、大先輩が青年医師の教育について触れ「せめて中医になれ、と常々言っている」と発言された事である。
最初の例は、若い医師が大きな志を抱くことを禁じるまずい主張である。まずいといっていけないなら、親方が若い職人に言うような前近代性にあふれた発想だといおう。
後ろの例は、やがては上医を目指せと励ましているので、その意図は善しとするが、やはり正しくない気がした。
そもそも、上記の上、中、下は段階的に捉えるべきものではない。まず下医になり、それから中医になって、やがて成熟したら上医を目指すなんて、あほらしい。
「市民」として政治や社会に対して積極的に発言し、「援助者(アドヴォケーター)」として患者の生活全体に関わり、「専門的科学・技術者」として自分の専門範囲の疾患に向かい合うのは、医師であれば常に一人の人間の中に同時に進行していることなのである。
その3領域はお互い重なりあって分離しがたいものである。
「上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す 」は
「修身・斉家・治国・平天下((しゅうしんせいかちこくへいてんか):《「礼記」大学から》天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである」
というのと似ている。
非現実的な段階論なのである。
急いで原発の危険性を論じなくてはならない時、自分の家の小さな庭に雑草が生えていたら発言する権利がない、などというようなものである。
段階論は儒教の特徴だろう。それは身分という段階を固定的に考え、尊重することと通じている。
明治人だった加藤周一さんが論語を引用したり、その本を柩のなかに入れてもらうのはよいが、僕たちのような1945年以降に生まれた者はおよそ儒教由来のことを口にしないほうがよい。僕たちにうまく使いこなせる代物ではやはりなくなっている。
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