早川和雄「居住福祉」岩波新書1997・・・「方丈記」との遠い響き合いを堀田善衛が指摘している
14年前に書かれたこの本を再読したのは、この本が阪神・淡路大震災の復興のあり方への抗議と、本来の復興のあり方を考えるために書かれたものだからである。
1995年の阪神・淡路大震災では、震災前の神戸市の「神戸株式会社」的な利潤追求行政が、老朽・過密・狭小住宅の放置、公園などの(火災延焼防止空間の)少なさ、福祉施設・大規模病院の郊外への偏り、学校設備における児童の生活への配慮不足を日常的に生じていて、それが悲劇と被害を拡大したことが指摘されている。
それは、貧困地区や生活保護層に死者を集中させた。それだけでなく、避難所にいられない高齢者や障害者の行き場所をなくした。また児童の食生活を無視した給食センター方式により、避難所となった学校には給食室がすでになく、可能だった避難所での調理を不可能にしたのである。
これらの反省が直ちに東日本大震災に適用できるものではないにしろ、いまこそ読み返しておくべきことではある。
またこの本は、居住は基本的人権だという意味について深く認識するために必読文献である。それはもとより国際人権規約第11条に明記され日本もそれを批准しているのだが、その実現のためにはただそれを知っているというだけでは不足する。
また、私にとっては現在もっとも頭を悩ましている在宅医療問題の解説を書くという宿題に関して、在宅医療を全く別の視点から眺めるという契機にもなった。
というのは、在宅医療がいつでも可能であるということは、権利としての居住の重要な一条件だということであり、それは医療側がおうおうにして住宅問題をバリアフリーかどうかに矮小化してしまい、まともな住宅とそれを包むコミュニティに住むことは基本的人権だというラディカルな立場を忘れてしまいやすいからである。
*ここで、全く無関係なことを述べたい。
13世紀初め鴨長明は「方丈記」に火事・嵐・飢饉・地震・津波など彼が見聞した災害のことを詳しく書いた。「また元暦二年(1185)のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。」とあるのは東日本大震災(2011.3.11)を思い起こさせる。
時は下って、20世紀に堀田善衛は鴨長明が経験した首都の大火と自身の経験した東京大空襲(1945.3.10)を重ね合わせて「方丈記私記」を書いた。その中で堀田は鴨長明が人間の運命というよりも、すみか=住まいのほうに関心が深いことを発見している。方丈記は最初から最後まで住まいに関する考察が続いているのである。方丈記という題名そのものが住まいにちなんでいるではないか。
有名な書き出しにしても「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」と「人とすみか」が同等なものとして扱われている。
人間と住居の本質的な関係に対する考察は13世紀からあったわけである。
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