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2011年5月24日 (火)

県庁所在地にない民医連の地方センター病院の意義・・・一つの妄想

東日本大震災があぶりだしたものに、二極分化していく日本社会の地理的な大構造と下位構造というものがあるように思う。

大構造とは、まず繁栄する大都市圏と衰退する地方への分化である。

下位構造とは、大都市圏、地方のなかにそれぞれ見られる二極分化である。すなわち大都市圏の中の都心とスラムへの分化、および地方の県庁所在地と地方の中の地方=僻地への分化である。

そういう構造を背景に民医連の病院の存在様式は大きくいって2種類あると言ってよいのではないか。

大都市圏では、都心とスラムの境界域に多くが立地している。未解放部落に建設されて始まった病院もあるが、そういう地域も次第に境界域に変わっている。

地方では圧倒的に県庁所在地である。これは多くは県庁所在地にある医科大学の卒業生である医師によってその病院が建設され、後継者獲得もその医科大学に求めたからである。

今回の大震災で民医連の被害は意外に少なかった。震災に伴う労災死は現在のところ4人である。これを少ないといって済ませてはけっしてならないと思うが、現地の公務員やほかの産業に比べると少ないのだろう。病院や診療所の物的損害もそう大きくはない。

これは、震災が主として地方の僻地を襲い、その地方の民医連の主力病院は、岩手も、宮城も、福島も県庁所在地あるいは衛星都市のみに集中しているためによる。

こういう構成をなしている民医連から見えているものは何だろうか。

少なくとも周縁からの視点というものは獲得できない。大都市圏の病院はその境界的な位置から貧困層の実態に触れることもあるが、それも中途半端だ。

地方に存在するといっても県庁所在地にある限り、地方の本当の姿は見えてこない。

上に2種類あると書いたものの、大都市圏の病院も地方の県庁所在地にある病院もその視点はほぼ重なり、ほとんど同じだ。

それは大病院間競争の只中にいて自己の事業の継続に汲々としている病院の視点というべきかもしれない。

それは、福島原発事故にあたっても、日本の他の原発の安全性の緊急点検を政府に要求することで議論が止まり、自分たちの近くにある原発の安全についてこれまでどういう論議がなされてきたかを改めて自分たちで点検し直すという提起をしないことにもつながる。世界の脱原発運動に強固に結び付こうという発想もまだ出てこない。

したがって、震災被害地に診療所を新たに建設して、最も困難を抱えた被災者とともに、あるいは最も困難な被災者の立場から復興に介入していこうという発想はなかなか生まれがたい。むしろ、それを単なるロマンシチズムや妄想と捕らえやすい。なぜなら、それは地方のなかでも置き去りにされた僻地を絶えず見つめている視点からしか出てこない発想だからである。

そういうことを考えていると、地方の県庁所在地に立地していない民医連の地方センター病院にこそ、偶然ながらもそういう発想の稀な可能性が残されているのではないかという気がしてくる。

すなわち、(手前味噌になるが)山口県宇部市の病院、長野県の長野市以外の町の病院、山形県鶴岡市の病院、青森県弘前市の病院、北海道の札幌市以外の町の病院である。残念ながら、それらの病院の多くは発想を現実に移すにはあまりに非力なのであるが。

だが、民医連が、ソ連式の崩壊から免れようとするなら、これらの病院の周縁からの視点にしか頼りようがないのではないかとも同時に思える。

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