私がなりたかったもの
TPP(transpacific partnership)参加問題は、現時点における日本の政治の最大の問題である。アメリカに日本の産業主権を引き渡すかどうかが問われている問題だからである。
ただ、食料の自給率を一定以上に保つことは当然としても、食料輸出国との良好な関係の追求は国内産業保護とは別に追求されるべきことのように思える。
開発途上国への援助によってその国の農業生産力向上に期待し、そこから食料を輸入しようとすることは別に避けなければならないことではない。平等な国際経済秩序が前提であれば、計画的に推進すべきことだと思える。
下に貼り付けた文章などを見つけて読んでいると、これが簡単な議論でないことは想像できるが、誰かが熟考してくれていることは分かる。
今日、書きたかったのはそのことでなく、この文章を読んで、私がなりたかったものがかなり明瞭に自覚されたという個人的な感慨である。
静かな毎日の営みの中から研究と行政の橋渡しをするようなことをしたかったのである。
しかし、つい昨日も「もう十分なポジションにいるのに、あるいは人の世話に回るのが当然なポジションにいるのに、周囲が自分への理解がないと不満を言い続けている。かつ、どう考えても無意味な学校時代の成績自慢や仕事の成果自慢を口にすることが多い」と友人に批判されたばかりなので、その批判を下敷きにして考えると、私にとっては、いま与えられている「民医連の全国的な在宅医療調査」を徹底的に進めて、騒がしくなく、誰でもうなづける説得力のある提案を作り上げることが、念願の「研究と行政の橋渡し」をすることに相当するのだろう。
だから、いまさら「何になりたかった」などと改めて口にすることではないのかもしれない。その入り口にはいつも立っていたのだから。
さて、私にそのような感慨を起こさせた文章は高井正夫さんのものでhttp://www.jadesas.or.jp/publication/03news089.html#chikyugiにある。
クリックの手間を省くためと、私の感想を後で挿入できるように以下に全文を貼り付けておく。
*ある「農務官」の思い出
JICA横浜国際センター所長 高井 正夫
JICAの創立
若かりし頃、農水省の職員になったとたんに担当したのが、JICA設立に関する農水省サイドの調整の仕事でした。1974年4月のことです。当時、農水省は長い間の国内農業保護政策から転換して、大豆や飼料作物(とうもろこし)をいかに安定供給するかという課題に直面していました。1970年代は世界的に気候不順で穀物の不作が続き、73年には世界食糧会議が国連で開催されるほど深刻なテーマとなりました。アメリカは日本への大豆輸出を禁じ、日本人は明日から納豆や豆腐が食べられなくなると本気で心配したものです。
農水省は穀物の安定供給のために外国での開発輸入を積極的に進める。そのため「海外農業開発財団」を設立しようということになったわけです。すでに日本の民間企業や全農などが「インドネシア・ランポン農業開発」のような穀物開発を活発に行っていました。この構想は、後に日本の高い農業技術を活用して食糧難にあえぐ開発途上国の食糧事情を改善しない限り、途上国の人々の食糧収奪につながりかねない。まずは途上国の農業開発を優先し、次に日本への安定供給を図るとして、時の政府の最終判断で、1974年8月、国際協力事業団(JICA)の設立目的の中に吸収され実現しました。
私は新入職員でしたが、先輩や上司の議論を聞きながら、貧しいアジアの食糧自給が簡単に達成され、日本に輸出できる余裕などできるものなのかとかなり懐疑的な思いを持ちました。開発輸入論には日本の植民地主義の再来として批判さえも起こりかねないアジア諸国の厳しい見方もありました。10年の後に、この心配は現実のものとなり、木材の開発輸入を中心にアジアの一部で「日本の援助の環境破壊」として批判を受けることにもなります。もっとも、農水省の中にも、JICAとして事業をやるのであれば、開発援助として相手国から喜ばれるものであることが大切との意見は強くありました。世界の穀物の安定供給には潜在力のある地域での開発が必要だったのです。
セラード農業開発
ある日、ブラジルの日本大使館から分厚い外務公電が届きました。従来、農業開発から見放されていた中西部の半乾燥地帯(セラード)をブラジル農務省と日系農協の協力で調査したところ、将来の農業開発地帯として有望というものです。しかも、日系農家が土壌改良したところ一部は大豆開発の適地として使用されているとのことです。丁寧で論理的な提案と農学研究者を思わせる技術的な判断が示されていました。起案者は、「在伯日本大使館 高多農務官」でした。セラードは日本の耕作面積の何十倍もの広大な土地です。ただし、試験的な事業でさえ、技術協力と資金協力で約50億円、何年かかるかも不明です。JICAは戸惑い、外務省は農水省次第と下駄を預け、農水省の中でも反対論が強かったと記憶します。
そのような有望な土地ならブラジル人や欧米資本がすでに開発しているはずだ。ブラジル政府は、どんな過酷な地でも日系人移住者が定住し豊かな農業地帯に変えているのを見て、「あいつらにやらせてみたら」と思っているだけだ。日系移住者を巻き込んで失敗したらどうするのかというような批判です。このような批判にブラジルから高多農務官は、淡々と政策的な意見、技術的な意見を提案し、日系農協の協力を取りまとめ、ついには日本からの政府調査団を迎えるまでになりました。数年後、この「セラード農業開発」は日本政府の初めての大規模開発事業として開始されます。
南米の大豆生産は当時から注目されていました。パラグアイでは大豆栽培に適したテラロシアと呼ばれる赤土で、1960年代から日系移住者が栽培を始めます。これが南米では大豆栽培の最初の試みです。ただし、栽培規模や輸送手段の問題から、単独では関心を呼びませんでした。今日、パラグアイの大豆開発は、JICAと日系人移住者の努力で最大の産業ですが、当時は多くの制約を抱えていました。アルゼンチンは広大な大豆適地を有する投資環境の整った唯一の国だったのですが、大土地所有者は牧畜からの転換に消極的。今でも豊かなのになんで苦労して大豆なんか作るのかというアルゼンチン人らしい理由。アルゼンチンは現在、穀物メジャーの手により世界3位の大豆輸出国ですが、遺伝子操作の種子に依存するなどの多くの問題を抱えています。
高多さんとの出会い
さて、私の記憶に深く刻まれた高多さんは外務省の通例として、農水省からの出向でしたが、通常3年の任期ですが、この事業のために1年延長しました。ブラジルから帰国し農水省に戻ると、なんと私の直属の上司となりました。英語だけでなく正確なブラジル語を話し、若い私の思い込みの強い意見や仕事にも、丁寧に諭し指導される上司でした。後に私は、高多さん同様、農務官としてパラグアイの日本大使館に勤務し、あまつさえ農水省を辞めてJICA職員となります。パラグアイでは移住者の方々と大豆栽培の援助に関わり、品種改良や不耕起栽培の成果を見ることができました。後のアルゼンチンJICA所長としては、北海道大学の方々と協力し、土壌保全のプロジェクトを進めました。私の仕事のすべてに、若い頃に指導を受けた高多さんの影響があるのはもちろんのことです。
30年後の今日、大豆の輸出量は、アメリカが最大で3千万トン、世界最大です。しかしながら、ブラジルも26百万トン、アルゼンチン7百万トン、パラグアイ4百万トン、ウルグアイ70万トンですから、メルコスール4カ国ではアメリカを凌駕しました。日本の協力した事業がここまで大きく育った例は他にありません。特に最近うれしいのは、ボリビアの日系人を中心にサンタクルスでも栽培が盛んになり、180万トン生産し、100万トンを輸出しました。内陸部の悲哀を味わってきたオキナワ、サンファン移住地の苦労が実りつつあります。
必要とされる日本の協力
しかしながら、この急激な大豆作の拡大は大きな問題もはらんできました。大豆の需要が世界的に拡大し、特に中国が大量に買い付けています。アルゼンチンでは本来大豆に適さなかった土地でも、遺伝子操作種子と除草剤の大量使用により大豆作が可能となり、穀物メジャーが後押しをしています。ブラジルではセラードを越えてアマゾン地域にまで大豆地帯が拡大しています。ブラジルのジャーナリストや環境団体には、「日本の援助が環境破壊をもたらした」と的外れな報告する者さえ出ています。グローバリゼーションの流れに乗り、穀物メジャーの支配下で連作障害により土壌微生物は減少し、土地は農薬に汚染されつつあります。もし、大豆価格が下がり、土地が放棄されたら砂漠化していく危険性さえあるのです。
持続的な農業開発のために、3年前、JICA事務所長とメルコスール4カ国は、環境に配慮した持続的な畑作のための研究監視ネットワーク作りを共同提案し、日本に送りました。残念ながら、今の農水省は「メルコスールには技術があるのだから日本の協力は必要ない」、JICA本部の担当部は「大豆は大農、中農が中心で人間の安全保障の視点がない」というコメントで実現していません。
このようなコメントは、間違いではないのですが、南米に大豆を導入した日系人とJICAの努力と成果を考えると、もう少し深く検討すべきかと思います。移住やODAを政策レベルで総合的なに評価できていない弱点があるようにも思えます。もちろん、プロジェクトレベルの評価は何度もやっているのですが、今、南米援助や移住者を語る場合、大事なのは政策評価です。日本政府とJICAが数年のプロジェクトの実施レベルだけでなく、長期的な成果の政策評価をきちんとやり世界に発信することにより、価値観が変化する時代にあっても、揺るがない日本の姿勢が示されるのだと思われます。
時に悲憤慷慨する私を見て、高多さんならどのように諭されるでしょうか。「高多農務官」は、その後、審議官を最後に退職し、残念ながら、若くしてお亡くなりになりました。最後までブラジルを愛されていた方でした。たぶん、高多さんは私に、少しかすれた淡々とした声で、「世の中にはいろいろな考え方があるし、時期というものもあるかもしれないよ」と語りかけるように思います。相手の立場に立ち、ものごとを多面的に見ることが自由な精神につながることを教えてくれた先輩でした。
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