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2010年11月15日 (月)

憲法25条の読みなおし;①能力の社会性、②能力の共同性、③生存権から健康権への発展

憲法25条を国際人権規約と比較して読むという読みなおしの結果、生存権に代わって「健康権」という概念が浮上してくるようだ。

それについて考えるさいの物事の順序を三つに並べてみると上のようになるのだろう。

①このブログの前々回の記事で、私たちが個人に固有な能力と理解しているものが、どんなに社会的環境に容易に影響される不安定なものか、そして不公正に現象しているものかを紹介した。「あいつは優秀な奴だ」なんていうのはいかにも軽薄な言い草でしかないということだ。

②このことは、おそらく岐阜大の竹内章朗さんのいう「能力の共同性」と相通じることである。個人の能力は周囲の多くの人や社会制度によって支えられて形成されたもので、個人の所有に属するとは言えないものだという主張は、同時に周囲や社会制度のあり方によっては個人間の能力差は極めて不平等なものになっていくということに等しいからだ。

③能力の共同性について確信をもって主張するとき、初めて私たちは徹底的、すなわち実質的な平等がこの世界に実現されるべきであることを展望することができる。

では、実質的な平等とは何だろうか。

能力の不平等はたとえ存在しても、とりあえず能力による処遇の差をなくせば問題は解決できる。能力の差のない社会は今すぐの目標とはならない。それよりも能力の自由な開花、それによる能力の多様性がむしろ目標になる。

しかし、健康の不平等はどこかで取り返しがつくという性質のものではないので、健康の平等は無条件に現在の目標とならなければならない。健康の平等こそ実質的な平等の最も直接的な表現である。

平等は、健康の平等で測定され評価されるだろうというのはアマルティア・センの意見でもある。

そこで、健康の平等は、憲法25条の「最低限の健康で文化的な生活を保障」できればよいとする生存権では説明しきれない、なぜなら生存権は格差の存在を容認するレベルにとどまるものだからである、という考え方が生まれる。

平等な健康は「到達可能な最高水準の健康」(国際人権規約)でしかありえないし、そこに格差があるはずがないというのが私たちの立場である。

そう考えると、憲法25条は文字どおりに最低限の「健康で文化的な生活」を保障しているのだが、、そこで述べられている「健康」は「到達可能な最高水準」を意味する「健康権」保障の条項として読みなおすとき初めて、25条は格差を拒否し平等を実現する武器となる。

したがって「最低限」というのは「最高の健康を保障する」べき国家の義務のレベルの表現だというのが、金沢大の井上さんの意見だった。

ようやく、生存権と健康権の違い、あるいは健康権を内包する方向への生存権の発展の必要性をはっきり述べられるようになったので、いかにもくどい文章を書いてしまった。

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