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2010年11月18日 (木)

高齢者医療をどういう視点で分析するか

昨日は自分の勘違いで余計な仕事をしてしまった。

民医連の本部で或る集会の問題提起となる文書を書いていた人が「病院の総合力」を文書キーワードにしようと思っているが、僕の意見を急ぎ聞きたいというメールをよこした。「ピンときますか?」

僕のほうは「病院の総合力」そのものに関して自分の意見を聞かれたものと思って、ここ数年書きためた自分の文書の中で、関連するもの15個ばかりを選び出して並べるという作業をした。

大急ぎで、それを添付した返事を出したあと、ふと気付いた。

求められていたのは、「病院の総合力」という言葉への僕の語感であった。だから「ピンときますか?」だった。「来る、来ない」のどちらかを答えればよかったのである。あーあ、馬鹿な時間を使ってしまった!!

しかし、この無駄な作業も、自分にとっては無駄ではなかった。

たとえば、下のような文章は書いていたことも忘れていた。何かセンチメンタルなところがあったからだろう。

「慢性疾患医療交流集会」に参加した時の記録である。

『2009年5月9日、10日は仙台の集会に参加した。

東北新幹線に乗ると、風景が西日本とは全く違うし、また人口密度もこんなに少ないのかといつも感心する。網野善彦「日本社会の歴史」岩波新書1997によると、1万数千年前から列島東部と西部の地域差は存在し、次第に大きくなって行ったとのことであり、この車窓の感想は間違っていないのだろう。

仙台での用事は慢性疾患医療をテーマにした集会である。

一昔前まで、高血圧や糖尿病を長期間診察していくための、検査・治療・教育の技法の組み立てが、この問題の中心課題だった。ある意味、医療者から患者への一方通行を前提にしたスキルの精緻化が競われていたといってよい。

その様相は今は全く変わったといってよい。要点は二つある。

一つは医療のあり方に関わる転換である。医療を患者と医療者の「共同の営み」と捉え、医療者の物語である「疾患」と、患者の物語である「病い体験」を相対化してともに重視し、二つの物語が融合して共通の目標が生まれることを目指す。カナダのマックウィニーを代表とする「患者中心の医療Patient  Centered  Medicine」と呼ばれるものである。

もう一つは、人はなぜ病気になるのかという問題への考察の深まりである。今日の理解から見ると「成人病」、あるいは「生活習慣病」という括りは浅薄なものでしかない。イギリスのマイケル・マーモットや米国のイチロー・カワチを代表とする「社会疫学」は、疾患の原因となる重要な社会・経済因子の存在を証明した。ほとんど全ての病気にその因果関係は認められ、これまで病気の原因と思われていた生活習慣も社会・経済因子が左右していることがわかった。

そのような認識上の深化が、日常診療にどう影響を与えていくかが、集会の本当のテーマだった。

しかし、言うは易く、行いは難しのことわざどおり、議論してみると、実際の診療場面の変化はまだまだ先のことのようだった。そのせいもあってか帰路の疲労はいつにも増して深かった。

疲労が取れないままの今日、不機嫌に(ということは事務的にということだが)外来を進めていると、はっとすることがあった。

患者は63歳の男性で、昨年呼吸困難で入院した人である。じん肺と肺気腫による慢性の呼吸不全が残った。母と二人暮しで職はなく、生活は極めて厳しい。職歴がはっきりしないので労災申請もできそうにない。先々月ようやく生活保護が支給され始め、生活のめどがついた。

その人が「昨年から13kgも太った」という。なぜかいつも何かを食べていないと落ち着かないという。確かに昨年の入院時はやせ方が著しかったが、今は普通に見える。「じゃ、この次に来たとき、血液検査をしましょう。糖尿病の検査も入れておくから」と私は答えてカルテに計画を書き始めた。

「血液検査ですか・・・そう、血液検査もしてほしい。去年入院したときは死んでもいいと思っていたが、今は生きたいと思うようになったから・・・」

声が変なので、カルテから顔を上げると、患者は泣いている。

「そうね、生活保護が取れるとようやくそういう気持ちになれるよね」

そのまま、患者は顔を手でおおって診察室を出て行った。慢性疾患を診療するということはこういうことの積み重ねなのだ。』

この文章を読んで、僕は今自分がいま抱えている宿題、すなわち今後の高齢者医療実践の方向を見つけるといことの基本的方針を思いついたのである。

それは「共同の営みとしての高齢者医療」とひとくくりにできるが、細かくみると二つの課題がある。

一つは、「患者中心の医療」としての高齢者医療の前進である。そこでは「患者と共同する専門職」としての高齢者の理解、高齢者医学への精通が医療従事者に求められているという課題である。いってみれば、高齢者の人権の自由権的側面の話である。

もう一つは、「高齢者の健康の社会的要因=高齢者を対象にした社会疫学」に基づいた、健康政策、医療政策、介護政策を考えることである。それは当面、終末期ケアの政策化ということであるが、PPK(ぴんぴんころり)運動などに代表される健康寿命の偏重・終末期の過度の軽視傾向を住民がどう克服し、自らの終末期を直視し、終末期に貧富の格差が集中する現状をどう変えるかという課題である。言ってみれば高齢者の人権の社会権的側面である。

構造としては、後者が土台で、前者が上部構造ということになるだろう。

考えてみれば、労力を発揮することに無駄なことはない。一見無駄と見えても、次の瞬間、自分が求めていた答えの発見につながっているのである。

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