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2010年11月22日 (月)

若月俊一「信州の風の色 地域農民とともに50年」旬報社 、1994年初版、2010年記念復刊 :手探りの中でヒューマニズムをどうしたら失わないでいられるか、自分の小さな成功に酔うことを嗤い、失敗を過度に卑下しないでいられるか、泥まみれになりながらも、一歩でも前に進むことができるか、という課題は、若月俊一の課題である以上に、今の私たち自身の課題である

若月自身の著作である岩波新書「村で病気とたたかう」1971、同じく岩波新書の南木佳士による伝記「信州に上医あり」1993の2冊を読んで、若月俊一についてはおおよそ分かっているよと思っている人たち(もちろんその中に僕も入るのだが)に冷水を浴びせるような、意外な一冊だった。

そもそも定価1600円のところを2割引きで買えるというだけの理由で何の気なしに民医連本部で買って帰ったのだが、ほぼ1日で読み上げてしまった。巻を措くを能わず、というヤツである。

小学生時代は何不自由ない家に育ちながら、関東大震災で若月一家は無一物になる。海軍士官型の制服(おそらく広島学院の制服のようなものをいうのだろう)だった東京府立一中で、紺絣の着物と袴のみすぼらしい姿は彼一人だけだった。そのため、いじめにあったということも33頁には書いてある。あとで左翼運動に入るのは、このときの苦しい思いがあったからだろうと述懐されているのが、なんとも素朴で分かりやすく、極めて個人的な客観的にはさほどでもない原体験から、この大きな仕事を残した人の活動が始まっているのが印象的である。

*わざわざこんなことを書くのは、私の政治的出発も、私立の中学に進学して相対的に貧困な階層に属したという経験によるに過ぎず、出発点や原体験としては語るに足らないということを自覚しているからである。まぁ、それが若月と一致しているというのがうれしいというべきか・・・。

1931年東大医学部に入って共産青年同盟のキャップになったあと警察に呼び出されやむなく転向を約束させられる。しかし、まさにその時、なぜか共産党入党を許可されて、地下に潜ることを指示される。そして、そのころはそのようにして共産党に入党し地下に潜ったものが逮捕されることが相次いでいた。これはまさに有名なスパイMがたくらんでいたわなだったのである。若月青年も危うくのところで入党と地下潜入を経て、やがてはおびき出されて虐殺されてしまう運命となるところだった。

しかし、すんでのところで青年はなぜか逃げ出してしまう。その自責の念で自殺まで決意する。が、遂にそれも果たせず、酒と女の世界にしばらく逃避する。入党していても自殺していても、その後の彼の業績がなくなってしまうという一瞬だったのである。このあたりは話としても手に汗握る展開であるが、若月氏のその後の一生の原点がどこにあるかがよく分かる部分である。

戦後に出た元特高宮下の自堕落な自伝のなかで、彼が覚悟のない学生活動家を馬鹿にしている部分を読んでもむしろ痛いところを突かれた気になって反省してしまうというのも若月の原点が何だったかに触れるところである。

戦争中の思い出の中では、軍医として出征し、満州チチハルの陸軍病院で結核を発病して死んだ若い甥を獄中で思うところが痛ましい。

戦後の共産党員知識人・作家・参議院議員高倉テルとの交流は面白くて腹を抱えて笑ってしまうことの連続である。高倉テルという人はなんとも軽い人で、代表作「箱根用水」などを思い出しても、僕には到底尊敬できない人なのだが、そういう感じはよく伝わってくる。警察で無駄なハンガーストライキをやって、共産党中央からの使者が窓の外から「やめなさい」と大声で呼びかけると泣き崩れてしまうあたりの描写もおもしろい。そこでわざわざ「もらい泣きをした」なんて書いているのは若月氏の底意地の悪さが透けて見える文章である。

秩父騒動に題材をとって脚本も書き、実際に上演もしていることが熱を入れて語られている。秩父騒動の中では最も印象深い人物である井上伝蔵の名前は一度も出てこないのではあるが、それはともかく、秩父騒動への関心は、日本の民主主義革命が現在も継続中であるという認識に他ならない。

話はずっと現在に近くなって、高齢者医療、在宅医療の重要性に注目し始める話が出てくる。厚生省の誘導に乗って老人保健施設を作ったら、おそらく民医連だと思える革新的な医療団体に非難されたという記述もある。その少し前のところで、「鄧小平ではないが、鼠を捕ってくれれば白い猫でも黒い猫でもかまわない」とも書かれている(P290)。若月は基本的に鄧小平型の人間だったのだろう。→*

*私の先輩活動家にもそういう人はいる。彼(A)にとって他人は彼の政治活動に役に立つかどうかで決まり、それ以外の関心はないようだった。彼はそういう行動様式から、派手な行動で目立ちながら実のところ自らの蓄財を追求していた人物を重用し、私たちはその人物に利用されて大きな損害を被ったことがある。私が親近感を持っている別の先輩活動家(B)は海外での活躍が目立つ人だが、地元にいる同級生Aを評して「あいつは『政治家』だからそういうことは平気でするよ」と切って捨てた。しかし、最近そのAがある難病団体で極めて評価の高い仕事を、政治活動とは区別して続けていることを知った。お茶の水付近で東大の若い保健学研究者と一緒に酒を飲む場で知ったので驚いてしまった。Aの持つ複雑さに触れた気がした。

ここで大事なのは、若月氏が、農村型の高齢者医療と、都会型の高齢者医療の違いを鋭く意識していたらしいことである。「農村医学」でなく「都会医学」が今必要なのではないかとまで読者を挑発している(p279)。

その後に展開される高齢者の自立と自己決定に基づくノーマライゼーションの保障の話は至極まともである。ノーマライゼーションを在宅だけに固執していると家族負担が際限なくなるというリアリストらしい目も光る。高福祉・高負担でくてはならないと若月氏が考えているのは確かだが、その高負担は庶民の高負担でないことも確かである。

最後に佐久総合病院を中心したまちづくり、すなわちメディコポリスの話になるが、次の言葉こそが重要である。「そもそも病院づくりは病院だけではできない。地域づくりとむすびついてこそ本当の発展が遂げられる時代になった」というのである。若月氏が考えていたのは、病院中心のまちづくりとは逆だったのだろう。まちがまちとして再生しない限り病院が役割を果たせることもないのである。病院があってまちがある、なんてやはり逆立ちした発想に過ぎない。まちが自分で生き生きし始めない限り、病院の出番はないのである。そういう意味では医療ツーリズムで儲けようなんて発想は絶対に若月氏にはなかったはずだ。

エピローグは面白い。センチメンタル・ヒューマニズムと庶民の自己防衛的狡さを混在させて生きる方針にしたのが自分だ、とか語られている。およそ自分を恃む人間にはあるまじき振舞いである病院内に自分の銅像を建てるなどということをよしとするのも、そうすれば佐久総合病院への周囲からの「アカ攻撃」を緩和するのに役立つという戦闘的打算によるのである。

時代のカオス(混沌)の中を泳ぐように生きる民主的プラグマチストの複雑な人生をざっと見て思うのだが、そのカオスはけっして消えているどころか、いまはさらに深まって、明日がどこに行くのか誰もわからない時代になっている。

中国やインドやロシアの台頭と行動を見ていると、国連がよほど強化されない限り第3次世界大戦は必至のようにも思える。

手探りの中でヒューマニズムをどうしたら失わないでいられるか、自分の小さな成功に酔うことを嗤い、失敗を過度に卑下しないでいられるか、泥まみれになりながらも、一歩でも前に進むことができるか、という課題は、若月俊一の課題である以上に、今の私たち自身の課題である。

そういう意味で、この本はやはり読まれるべき本の一つである。

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