リチャード・ウイルキンソン+ケイト・ピケット「平等社会 経済成長に代わる、次の目標」東洋経済新報社2010・・・みんなが賢くて上品にふるまう社会は平等社会でないと実現しない
マイケル・マーモットの先生というか仲間というかというほどの社会疫学者で、「格差社会の衝撃」書籍工房早山2009、池本幸生訳でまさに衝撃を私たちに与えたウイルキンソンが一般向けに書いたとても面白い本。しかし東洋経済新報社出版のこの本は、十分その価値を認められるようには編集されていないような気がして、きわめて残念な気がする。
たとえば213ページの図13-5は所得と死亡率の相関の在り方について、格差の小さな州に属する郡(カウンティ)の集合と格差の大きい州に属する郡の集合との違いについて説明したものだ。もちろん双方とも所得と死亡率のあいだの相関がはっきり認められるのだが、郡間の比較では格差の小さな州に属する郡の方が死亡率が高いように描かれている。本文では逆の解説がなされている。格差の大きな集合のほうが当然のように死亡率が高い。
こうした雑な編集の雰囲気が、文章の出来一つをとってみても全体に感じられて、せっかくの重要な「相対所得仮説」の全面展開がすっきりと読者の頭に入るように出来ていない。
しかし、それでも、事実の迫力は読者にぐんぐん迫ってくる。
130ページに世界銀行のカ―ラ・ホフとブリヤンカ・パンディが2004年発表した「驚くべき実験結果」が引用されている。インド農村部の少年321人を集めて迷路の問題を解かせる。最初は全く全員を平等に扱って行うとむしろ低いカーストに属する少年たちのほうが高い正解率だった。しかし、その後自分の属するカーストを含めて自己紹介させた後、別の迷路の問題を解かせると、高いカーストの少年たちが圧倒的に良い成績になってしまった。
これは「ステレオタイプ効果」と名付けられ、世界のさまざまな場所でさまざまな差別に伴って確認されている。評価には無関係だと宣言して試験すると黒人が上回るのに、評価するためだと宣言すると白人のほうが勝ってしまうアメリカの大学院学生。青い眼と茶色い眼について、どちらが優秀かという教師の偏見を明らかにすると成績がその通りになってしまった実験も紹介されている。
自尊心の程度が脳の活動を決定してしまうのである。おそらく、脳内のドーパミンやセロトニンの分泌が(報酬による快感をもたらすものとして)正方向に、副腎皮質ホルモン分泌が(不安や無力感をもたらして思考能力や記憶力を阻害するものとして)負方向に働いてそういうことが起こるのである。
日常的な感覚でもこれがよく分かる。僕にもこれに属する軽い体験は常にある。たとえば上京して全日本民医連の会議に行くと、中心になる4役の人々は面白く可笑しく自由に喋って、その発言も全国の経験を凝集したものとして丁重に扱われるが、僕など地方の小県連出身者は最初から自分の意見について背景となる経験が貧弱なものとして自覚させられ、態度としても自信なく(よく言えば謙虚に)しどろもどろに発言するように仕向けられている気がする。そうした発言が丁重に取り扱われないのは当然である。もし、出身県連や役職などをあらかじめ知らせることなく自由に話せばこういうことは起こらないだろう。
*しかし、そういう僕が、地元に帰ると県連会長として、後で反省すると傍若無人にふるまって自分の意見を他人に押し付けたりしている。これは頭を押さえつけられた人がペダルを蹴飛ばすのにたとえて「自転車反応」とフランクフルト学派が名づけたものである。
そのように、最貧層には属さず、また少なくとも政治的には主流に対抗する立場にいることを公然とさせている僕だって、社会の序列と格差に心身とも捕らわれて健全には生きていないのだ。
社会的地位による格差は決して最底辺層のみの生活を破壊するだけではなく、ごく少数の最上層を除くすべての社会構成員の生活と健康を害するのである。
しかし、格差のない平等な社会を作る素材も人間社会には十分準備されている。もしそれに成功すれば、人々はみんな賢く上品な社会が出現する、あきらめるな、がんばれ、というのがウイルキンソンの結論なのである。
ただ残念なのはそういう社会ではそれがごく普通のことなので、そこにいる人々にはそれが格別有難いことには思えないことである。
そういう社会の隣に、今のアメリカや日本のように格差と不平等が大きく、みんなが愚かで無作法な社会が存在すれば比較もできて喜ばれるだろうが。
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コメント
このお話は大学教員をして襟を正させるところがありますね。大学間の序列と格差の存在は残念ながら客観的事実です。しかし、学生諸君がそれを必要以上に気にすると、発達の可能性が大きく阻害されます。教員が「どうせこの程度だから」と思って接していると、実際に「その程度」になってしまうのです。どこかで悪循環を断ち切るしかありませんね。
投稿: Tetu Makino | 2010年11月 8日 (月) 16時38分
コメントありがとうございました。大学教員の先生としてはぜひ学生が委縮せず自由に思考できる環境を作ることに努力して頂きたいと思っています。
大学教授のような社会的地位の高い人もこういう格差の影響からは逃れられないようで、ある医学部教授も「旧帝大出身教授は学会でものびのび発言しているのに、二期校出身の研究者は彼らの前では無意識に萎縮して自然な討論にならない」と言っていました。
能力による処遇の差を設けることに反対しているのは「平等論」を研究している岐阜大学の竹内章朗さんですが、能力自体の発現・成長もこのように格差の前であいまいなものですから、ますます、能力を処遇の差の根拠とすることは間違いだと思えてきます。
また。格差があると、このように社会の上から下まで被害を受けて、社会全体の平均レベルも下がるというのが「相対所得仮説」の主張の中心的部分です。
平等な社会では、無用な心理的萎縮がないため、成員全体の能力も向上し、それが社会をより豊かにするというのは、決してマルクスの幻想ではないことが、今、社会医学的に明らかにされつつあるというところです。
投稿: 野田浩夫 | 2010年11月 8日 (月) 17時29分