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2010年10月 8日 (金)

塀の上を歩く日々

南山大学社会倫理研究所発行の紀要「社会と倫理」に、その拙なさが関係者に申し訳ないような書評を掲載してもらった上に、一臨床医が社会学の専門雑誌に寄稿するという稀有なことが本号の目玉になっているとまで編集後記に書いてあったのですっかり恐縮してしまった。

それにもかかわらず、今週は疲労感が強い。考えてみると、これは自分の仕事への不全感のためである。

高齢者の急性増悪ばかり扱っていると、定期的にこういう心理状態になる。

なにより、丁寧に患者や患者家族と付き合うための時間がなさ過ぎる。今週は特に多かったいろいろな侵襲的な処置について、その危険性の説明も明らかに不足している。病状説明書、承諾書などをカルテに残すという形式は整えてあっても、内容はきわめて不十分だ。問題の手技が成功すればそれですむが、うまくいかなかったときはトラブル必至という状態である。

最近の警察が見せる「医療事故に積極的に介入してなるべく業務上過失傷害、致死として立件してしまおう」という過剰な攻撃的姿勢から見ると、私などはいってみれば塀の上を歩く毎日を送っているのである。

これから30年間は、癌によらない病気、例えば心不全や腎不全の末期の高齢者が急増する中で,治療とケアの比重がほぼひとしい状態が最後まで続く中、加齢とともに危険性が高くなるばかりの侵襲的処置を次々とこなしていかなければならないことを考えると気が重くなるばかりだ。(癌の場合は、もはや治療は無意味なので今日からはケアのみに移行するということが同意されやすいだろうが、老化+急性疾患の場合、治療の必要は最後まで続く)・・・もっとも私自身は引退する日もそう遠くはないから、後の世代の人が心配だという話になるのだが。

それと、そこに加わる認知症についてどう考えればよいか、自分の姿勢がいつもふらついている気がする。三好春樹さんが言うように、周囲の手をあまり煩わせずおだやかに自然な感じで、近代的人格から生き物に帰っていくのであれば医療としても成功したと言えるのだろうか。しかし、それではやはり、治療の必要性への認識が薄れ認知症高齢者の人権を守り抜けないのではないか。

というわけで、一臨床医として事態はますます深刻になっており、社会学の専門家の意見を読む時間も増えざるをえないのである。

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