医療事故の不可避性―「物語」による認識、それを超えるもののヒント:白井 聡『「物質」の放棄めざして レーニン、〈力〉の思想」』作品社2010を読み始めた
10日、民医連で医療安全を論じていると、新潟・下越病院の五十嵐医師が「人間は『物語』を作って現実を認識するように出来ているから、いったん一つの『物語』が出来上がると、そこからこぼれ落ちて見落とされるものが必ず生じる」と言った。それが医療事故の不可避性である。
私も一応それには賛成する。
人間は物語・ゲシュタルト・パラダイムを通して世界を認識するという能力を持っている。簡単に言えば「先入観」を通じて判断しているということである。それが洗練されるとスナップ診断という名人芸をも可能にする。名人芸でなくても、そもそも新たな現実に先行して「物語」があらかじめ準備されていなければ認識や診断そのものが無理なのだ。
おおざっぱに言ってしまうと「現代医学」という「物語」を身に着けて人は医師になるのである。身に着けなければ医師になれないと言い換えてもよい。
もちろん、その「物語」は、行動の結果によるフィードバックで修正されるが、それは偶然によるところも多いし、いずれにしろ一気には行われないので、どうしても、「物語」と現実の間にはズレを生じる。このズレに原因がある医療事故は、避けようもないという事情がここで生じる。それはどのように克服されるのか、といえばフィードバックの質と量を拡大するしかないと誰もが思っている。
・・・と、こんな話は、人間の認識については「常識」の部類である。
しかし、この日はその常識を少し疑う結果となった。
それは、東京から帰る間に、この前から気になっていた白井 聡『「物質」の放棄めざして レーニン、〈力〉の思想」』作品社2010を買ったからである。
同じ著者の前作『未完のレーニン―〈力〉の思想を読む』講談社メチエ2007 は面白かった。
中沢新一『はじまりのレーニン」岩波書店1994 に題も内容もとてもよく似ていたが、より分かりやすかった。中沢の影響下で書いたことは本人もはっきり述べている。
しかし、最初にこの新作を書店で見た時は現在33歳の若手研究者が書いたものに2600円+消費税を払うのは無駄遣いのような気がして買わなかった。その代りほぼ同じ値段で老人が書いている聴涛 弘「レーニンの再検証―変革者としての真実」大月書店2010を買った。それについてはこのブログでも書いた。あまり面白くはなかった。
というわけで、10日最終便の山口行きの飛行機でようやく『「物質」の放棄めざして レーニン、〈力〉の思想」』を読み始めた。
すると、昼間にしていた議論と響きあうところがあるのに気付いたのだった。
「物語」・解釈の構造だけに関心を集中すると、現実が後ろに退く。それはレーニンが対立していたボグダーノフ やマッハの、「確実に存在するのは私達の感覚だけだ」という主張に近い。とくにNBM(物語に基礎を置く医療)になると、極端に言えば「存在するのは患者の主観世界だけだ、主観世界を変容させれば病気が治るとまではいかなくても大半の問題は解決する」と言いだしそうなのだから、マッハの主張と非常に近いと思われる。
これに対して、人間の意識と独立して物質があるのは確かだ、人間の認識は「記号」「象形文字」としてそれを反映するというのは プレハーノフの立場である。これは、「診断は物語の形をとるしかない」という五十嵐医師などに似るだろう。
しかし白井によると、レーニンはボグダーノフともプレハーノフとも違って、物質世界が直接に人間の認識に写真のように像を結ぶ可能性に賭けているという。人間の認識の枠組みなど、レーニンには甘ったるい小説の筋書きのように無意味なものに見えていた。
レーニンにとって認識する行為は意識と外界の接触・衝突であって、外界が人間の認識の底を砕けば、底なしの物質世界への新たな認識が開ける。
人間の浅い認識の底が物質によって破られる、そのとき、それは人間の意識には「それはこれまで経験したことがない課題だ。それをなすべきかどうかは考えているだけでは答えが出ない。実行して情勢がどう変化するか観察することだけが答えを出す方法だ。ひらたく言えば、『やってみなければわからない』」というように現象する。
そうしてレーニンは、「抑圧から解放された時の人民の力を試したものはいない。ボリシェビキの蜂起で人民がどういう政治行動に出、政治的力を発揮するかは未知の問題だ。ここはやってみるしかない」と決意して、内外からの反対の激しかった1917年10月の蜂起を実行するのである。
正否が事後にしか決定されないような情勢認識に基づく判断をなしたとき、それは、外界・物質が人間の認識の底を破ったときである。
そのときレーニンは腹の底から突き上げてくるような笑い、哄笑に支配された、それは、底なしの無限な物質世界に直面した人間の反応だった、というのは中沢新一の記述である。
そこで、レーニンはカントに似るし、同時にカントから離れる。物質自体は確実にある、そしてそれを知りつくすことはできないという点ではカントもレーニンも等しい。物質の階層の無限性を論じた「電子さえも汲みつくすことはできない」というレーニンの有名な言葉はそれだ。しかし、破れた認識の底から、物質世界に直面する体験はレーニンだけのものでカントには無かったのだろう。
話を医療に戻して、レーニンの経験したような、物が認識の底を破るような診療経験がありえるものかどうか、。ともかく患者の苦痛を目の前に、これまでの医学による成算なしに手を下してみて初めて分かる診断や治療効果、人間関係というものはある。先入観からすれば逃げだしたくなる相手にも物おじせず接することから思いがけない解決が見えてくる。それに似ているのだろうか。
しかし、ともかく、思い切って実践に飛び込んで、これまでは想像できなかった外界に直面することが、さまざまなパラダイムなどを極小のものに見せてしまう本当の認識だということになるのだろう。
俗にいう「当たって砕けろ」である。こう言ってしまうと身も蓋もなくなるのだが。
ただ、医師の診断・治療も、革命家の情勢認識・実践も同じ方法で構成されることはおぼろげながら見えてきた。
どうも、この本は相当に仕事と勉強の邪魔になりそうだ。
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