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2010年9月 2日 (木)

医療における観念論 NBM

9月10日に全日本民医連の事務幹部学校で「民医連の医療理念」の講義を引き受けたので、ここのところその準備に時間をとられている。

昨日、「なるべく人より遅れて読もう、できたら文庫版になって安く読もう」、と思っていた柄谷行人「世界史の構造」岩波書店2010年6月を結局注文して、それが届いてしまったので、仕方なく読み始める。

思ったより分かりやすくて面白いので、上記の講義のレジュメにもどうしても影響する。

そうしてスライドのあちこちに小さく手を入れながら考えていると、ふと、「患者中心の医療 PCM」や「物語に基づく医療 NBM」は観念論ではないか、という疑念が湧く。

19世紀末、マッハたち優秀な物理学者をとらえた「経験批判論」のような、といえば大げさだが、PCMもNBMも患者の主観世界をとくべつ重視するので、観念論に陥る可能性はある考え方である。

しかし、PCMでは、病気の身体は実在する。

その病気の身体を、医師がその主観世界にも影響されながら、現在ある医学の枠組みで捉えたものが「疾患」diseaseであり、病気の身体が患者の主観世界に反映したものが「病い体験」illnessである。この「疾患」と「病い体験」の差異に注目し、双方に関わろうとするのがPCMによる医療行為である。

とすれば、PCMは実在するものとその人間の意識への反映をきちんと筋道立てて考えており、唯物論の主流を行っているといってよい。

医療者の診断がいくら科学的で否定できないものに見えても、あくまで時代の制約を追った実在の反映に過ぎず実在そのものではない、どこかに歪みや不十分さをもちうる、まして実際の医療行為となると患者の自覚的世界との協力関係なしには進まない、という「限界の自覚」が「患者中心の医療」の新鮮さである。

ここでは患者や医療者の意識が、実在する病気の身体に逆影響することも無理なく説明できる。

PCMは、民医連の「医療は患者と医療者の共同の営み」という医療の定義とほぼ完全に重なる。

いっぽう、NBMは、病気の身体が実在するかどうかを問わず、すべては患者の主観世界で進行していることだと考えたがる。

医療者もその世界の登場人物としての自覚を持った時初めてその世界で合理的な行動を選択でき、患者の主観世界を操作できるとする傾向が強いので、やはり観念論に陥りやすい考え方だといってよいだろう。

実際にはNBMはPCMの一手法として部分的に取り入れられていることが多いので心配はあまりないのだが、場合によっては、「治らなくても患者が人間らしく生きられればそれでよい」ということを過度に主張して必要な治療がなされない傾向や、さらには「限りなく希釈した水に、かってそこに存在した物質の記憶があり、その水を飲用することが治療効果を発揮する」という明白な詐欺行為を合理化することに使われるという危険ははらんでいるといえよう。

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