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2010年9月13日 (月)

吉田修一「悪人」朝日文庫2010

日本で「悪人」というと親鸞―唯円『歎異抄』の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」を下敷きにせざるをえない。

ここでいう悪人とは、殺生しないと生きてはいけない職業にあるものや娼婦に身を落とした人たち、すなわち社会の底辺に追いやられた人たちのことである。富んで善行を積む機会を奪われた人たち、すなわち悪人こそ真っ先に救済されるべきだという考えは日本思想史の頂点に位置する。

この小説も結局そういうことである。主人公の純粋な青年がみずから悪人の役割を選びとることを通じて、周囲の人間を「被害者」の相を負わせて社会からの非難からのがれさせてやったという話。

読みやすいのは美点である。

それにしても、この作品を含めて、(川上弘美を除いて)最近流通している日本の若い人たちの小説を読むと気分が荒廃してくるのでいやだ。それがなぜかというと、彼ら若い作家は、全く人間性を持たない人物を描きたがるからである。映画「黒い家」に出てくるような理解不能な人間(サイコパスというらしい)でこの社会が構成されている気がしてくる。

しかし、それは根も葉もないことではなくて、やはり現実の反映である。

まだ民主党の提灯持ちにならず、比較的まともだったころの神野直彦氏は、ある講演で次のように言っていた。

「人間は贅沢をするために富を持ちたがるのではなく、富によって他人をひれ伏させ、他人を自由に動かしたいから富を持つのだから、富のトリクルダウン(おこぼれがまわっていくこと)は決して起こらない」

確かに、他人を支配したり指示したりすることだけが行動動機で、自分がここにいるということを誇示するためだけの目的で発言する人はいる。その行動のメカニズムを理解することはあまりにも容易で笑ってしまうのだが、考えてみるとその背後に人間的な感情がうかがえないので、同席すれば不気味である。

作家はそういう状況に多く敏感なのだろう。

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