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2010年8月 7日 (土)

エンゲルハートらの「パーソン論」をどのように批判するべきか・・・私とは、私と他人の関係でもある

1か月以上前になる岡山・水島協同病院での「臓器移植法改定を目前にして」という講演がきっかけで、岡山の地域雑誌「人権21」に同様の趣旨の原稿を依頼されたものの、1行も書けないでいる。

題名だけは思いついた。「臓器移植法改定が意味するもの 死生観への深刻な影響について」。

そもそもはこの問題について、制度的な事柄以上に発言する知識や見識も持ち合わせていないことが原因なのだが、なによりも、人格(パーソン)を自立している人格から移植臓器提供しか社会への貢献がない脳死状態にまでの何段階かにランク付けすることによって、最終的には脳死臓器移植肯定の哲学的な根拠づけとなっているエンゲルハートらの「パーソン論」を自分なりに克服する作業が私の中で完了していないことが大きなハードルになっている。

今朝から、ぼんやりこの問題を考えていたのだが、人格は個人に内在するものだけでなく、他人との関係の中にあるという視点を導入しなければならないのではないかということに思い至った。これは東大の川本さんなどの影響によるものであることは明白だが、感情として自分のものになったのは今朝のことである。

たとえ、私が脳死体となって横たわっていても、私を愛惜してくれる他人がいれば、そのときなお私は完全な一個の人格なのではないだろうか。

私が死亡してこの世に跡形がなくなっても、私を思い出してくれる人があれば、関係としての人格は残るのである。

死者が冒涜されてはならないのは、まさにこのことをいうのではないか。

さらに、もし、(実際には大いにありそうなことであるが) 具体的に私のことを気にかけてくれたり、記憶してくれる人が全くいなくても、人類の理性というものが存在するなら、その理性は私のことを見捨てることはないので、私が人間である限り、事情は何も変わらないと考えてよいのだろう。

したがって、≪人格としてより低いランクにあるので臓器提供者となって社会に貢献するのは当然≫というエンゲルハートらの論理に脳死体になった私がからめとられることはありえないのではないだろうか。

こんなことを考えていると、原稿に取り掛かるのがさらに遅くなってしまうのだが・・・。

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