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2010年7月18日 (日)

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう」早川書房2010

ベストセラーを読むのは気恥ずかしいものだが、ベストセラーになるにはそれなりの理由があるので、読み始めると面白くて、読み終るまで本を閉じられなくなる。この本もそういう本である。

早川書房の翻訳本の読みやすさはやはり老舗の能力なのだろう。同じく早川書房から出版されている動物行動学の入門書であるコンラート・ローレンツ「ソロモンの指輪」も面白く読みやすいので10回くらい繰り返して読んだが、この本もそれに匹敵する面白さ、読みやすさになっている。主題に関係するカート・ボネガットの小説も多くは早川書房なので、「真面目に生きていくためには岩波より早川を読め」と言いたくなるところである。

◎正義が主題なので、すべて私たちにとって切実な話である

◎この本を読んでいると、まず新自由主義=自由至上主義(リバタリアニズム)、功利主義(最大多数の最大幸福を説くベンサム主義)をきっぱりと否定してくれるリベラリズム、その代表のカントとロールズをちゃんと自分で読みたくなる。

リベラリズムはリバタリアニズムと同じように自由に最大の価値を求めるが、自分の自由だけでなく他者の自由も平等に価値があるとするものである。

「実践理性批判」は高校生のころ買った岩波文庫が本棚に読まないままにあるが、あれは今も読めそうにない。「道徳形而上学原論」は短いし読めそうなので早速買いに行った。ロールズは川本隆史さんが「正義論」を訳しなおしているので、それが出来上がるまで待つことにしよう。

◎しかし、リベラリズムすなわちカントとロールズだけでは現実の問題に立ち向かっていけないことが多い、とサンデルは言う。他者を超えて、社会やコミュニティのレベルで現実の問題が生じてくるからである。

その例は、235ページに展開されているハーヴァード大学が新入生枠の10%を競売にかけて稼ぐことが許されるかどうかという議論である。

入学条件は受験生の学力だけで決めるわけではなく大学自体の目的に沿って決めるべきであり、競売で得る金が研究費になることで大学は学術面で高い成果を上げることができるのでこれは正しいのではないか。

しかし、大学の目的は高い学術的成果のためだけにあるのではなく、公民的善の達成のためにもある。

それを考慮すると、入学許可をただの商品として競売にかけることは許されない、という結論になる。

*これは、医療にもいえる。中国や中東の富裕層を組織して大々的に展開しようと、民主党の「地域主権」政策チームが熱をあげている「医療観光ツアー」についても、その道具として大学病院を使うことは許されるのだろうか。もっと一般的にどこの病院でもやっていることだが、入院資格を競売にかけているに等しい差額ベッドは、たとえ、それが収入増を通じて病院の発展という目的に役立とうが、医療と病院の持つ名誉からみて、堕落としか言いようがないのではないか。

◎ここから引き出される、正義は社会やコミュニティの「目的と名誉」の二つに関わって決定されるという考え方は、アリストテレスの正義論なのである。

リベラリズムはアリストテレスの社会レベルの正義論を取り入れなければ現実的な力をもちえない。

それは人間を「共同の物語を生きるもの」として捉えることでもある。個人は、自己の属するコミュニティや国家の歴史を自分の目的と名誉の問題として引き受けざるをえない立場に立っている。(288ページ)

また、その時、自分の生命も身体もけっして自分のものでなく、連綿として受け継がれる生命の歴史の中にあるものとして見えてくる。(95ページ)その僅かな一瞬を預かっているにすぎない私が自由に処理していいものでは決してない。その意味で自殺も他殺も不正義なのである。

さらに著者は日本の従軍慰安婦問題も周到に取り上げている。2007年安倍首相(当時)が日本軍の責任を否定したことに対して、アメリカ連邦議会が日本政府は責任を認めて謝罪をせよと決議した。この事案において問われているのは、日本というコミュニティや国家の目的や名誉にかかわる問題である。私は戦後生まれだから、戦前の従軍慰安婦問題には責任がないとは到底言えない。これもまた、アリストテレスの正義論が現代に求められている実例である。

◎こうしてリベラリズムを超えて、社会やコミュニティの価値を守ろうとしていくアプローチは、コミュニタリアニズムと呼ばれるが、著者サンデルの立場はこれである。

*しかし、カントは所属するコミュニティや国家に関わっていくことを「理性の私的使用」として、人類一般の普遍的な問題を考える「理性の公的使用」と区別して一段低く扱っていた。カントはすでにこの問題を考えていて、なお自分と他者の関係を第一においたのだとすると、リベラリズムとコミュニタリアニズムは鋭く対立するものかもしれない。

その対立は歴史的な発展のなかで考えるとわかりやすい。

封建的な身分制の中にあったのは一昔前のコミュニタリアニズムであり、それを打ち破って現れた資本主義的なリバタリアニズムは一昔前のリベラリズムだった。さらにそれが否定されてカントやロールズのリベラリズムが生まれ、さらにその限界が指摘されてりコミュニタリアニズムが提唱されているのだとすると、いまのところリベラリズムとコミュニタリアニズムが交互に否定しあいながら歴史が進んでいるともいえる。

*コミュニタリアニズム=コミュニズムではなく、日本で言えば佐伯啓思や西部 邁(すすむ)ら右派もコミュニタリアンにあたる。ただし、彼らが守ろうとしているコミュニティの価値、すなわち、皇室を中心にした日本の価値、というのは実在するものではなく、彼らの幻想あるいは詐欺宣伝に過ぎないのであるが。

*ロールズも批判を受け入れて、1995年の「ヒロシマ発言」に結びついていく。彼はアメリカの原爆投下は断じて許されないことだったと言明するのである。圧倒的に原爆投下を当然視するアメリカ世論の中でその言明をなすことは、きわめて危険なことだったが、それを推し進めるのはまさにロールズの正義論のもつ力だった。

◎この本の結論は、積極的に現実の政治に関わることによって、正義論は発展して行くということである。

これはアリストテレスが「政治共同体を作って生きることは人間の本質であり、善良な生活を送るには政治への参加が不可欠だ」と言ったことの、現代的表現である。

◎コミュニタリアニズムは、貧富の拡大を問題にし、それが不正義だということを、(ロールズであれば最貧層の利益になるような格差の拡大になっていないとして証明するところを)民主的な市民生活における「連帯」の崩壊を根拠に主張する。

富裕層が質の高い民間サービスで生活するのに対し、貧困層には公共サービスしか残らず、その公共サービスが日に日に切り詰められていくために、貧困層の団結も妨げられる。

公園も公会堂も公共交通もない地域では、貧困層同士が出会って話し合うこともできなくなる。そこでは市民道徳が崩壊する。

一方富裕層は、高い塀と警備員に囲まれた高級住宅地で暮らし、外の地域に恐怖を感じつつ暮らす。

*社会疫学が見ているのもこの事実である。そのような格差が健康を失わせていく。貧困層に被害が最も大きいのは当然だが、富裕層も不安と競争の中で健康を害していく。結果、格差は社会全体の健康度を低下させる、これがウイルキンソンの主張する「相対所得仮説」である。

*「カントやロールズを潜って復活したアリストテレス」、これが著者サンデルの思い描く自己像なのだろう。

*貧困や格差が進行すれば自動的に革命の機運が高まるというのは間違いだ。カントや、ロールズやサンデルや社会疫学の主張や成果によって、貧困や格差が不正義だと証明されるから、人々が革命の必要性を徐々に確信していくのである。

*窮乏から革命に事態が転化するには、科学的な事実に基づく冷静な「正義論」が必要なのである。

*「科学的社会主義」という用語も、エンゲルスが言うように「社会主義への移行の必然性が科学的に証明された」からというより、「資本主義が多角的に科学的に解明され、その全体像が人々の共有する倫理や『正義』にとって許容できないものと判明するため生起する社会主義」と定義すべきではないだろうか。

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