ボールを投げる―砂の可能性の中心としてのボール
「ボールを投げているのに受け止めてもらえない」と後輩に言われた。
私からすれば、それはボールではないのである。砂場から一握り砂を掴んで投げかけられただけ。
砂が顔に当たるので払い落としたが、確かに何かが当たった気はしていた。
ボールというからには、砂をよく丸めて途中で破片にならないような団子にまでするか、あるいは袋にでも入れて一定の形を作らないとだめだろう。そういう努力なしのボールって存在しないのではないか。
ただ、逆の立場から言うと、砂が顔にあたったのを感じていたのなら、その砂が作る可能性があったボールを想像してほしかったということになるだろう。すなわち、「顔に降り注ぐ砂場の砂 その可能性の中心」を読み取るべきではないのかということである。
しかし、それを言っていては、私の負担は無限大になる。
ここにおけるバランスは難しい。解き難いジレンマである。
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