マルクスーその可能性の中心を本当に探究しているのは不破さんだということ
「マルクス その可能性の中心」という面白い本を書いたのはもちろん柄谷行人氏である。マルクスが書かずに終わったが、(生き続ければ)本当は書いたであろうこと、考えたであろうこと、すなわちマルクス自身の可能性として存在していたことの中心は何だろうか?という問題提起である。そこにこそ、私たちが求めているものがあるはずで、今マルクスを読むことの意義はそこ以外にはないというのだ。
そして、実際にマルクスの可能性を探し、マルクスの書いたものからそれを真剣に再構築しているのは不破哲三さんである。
実は、以下は2009年10月に私が書いたブログ記事の一節であるが、再録しておきたい。日中共産党理論会議に関する話である。
「昨年9月11日のリーマン・ブラザーズの破綻以来の世界恐慌を、金融恐慌というのみでなく、本質は過剰生産恐慌だと論じるところから話が始まる。ここは、不破さんが、2008年の金融恐慌をマルクスの恐慌論そのものでなく、マルクスの恐慌論の可能性から探り当てたところである。
恐慌に関するマルクスの理論的解明の第一の柱は、資本主義における恐慌の可能性(G-Wと W-G’の分離、すなわち商品を作っても、それを売ることができるかどうかは大げさに言えば命がけの飛躍になる)、第二の柱は資本主義によって恐慌が起きる根拠(商品購入者としての労働者の購買力が、商品生産に追いつかない傾向が絶えずあること)である。それだけではある時に急激に出現する恐慌が実際になぜおきるのかを説明しきれないと不破さんはいう。
マルクスの恐慌論の第三の柱は、恐慌が実際に生じるメカニズムであり、それは恐慌論の最大の難問だった。しかし、それは、資本論の中に分かりやすい形で述べられているわけではなく、恐慌に関するマルクスの発言の断片をつなぎ合わせても再構成することはできない。
しかし、マルクスが考えていたことを丹念に追っていくと、商人資本が商品購入者である労働者をあおり立てて架空の需要を作り出し、産業がそれに応えて過剰生産に走ることが恐慌が実際に生じるメカニズムなのだということが浮かび上がってくると不破さんは言う。
マルクスの時代における恐慌実行犯は商人資本だったが、今回の恐慌の犯人は貧しい労働者に住宅購入をあおりたててサブプライムローンを大量に編み出した金融資本だったわけであり、そのせいで金融恐慌と思われやすいが、実際のところは産業側が架空の住宅需要とその関連需要に踊って生じた過剰生産恐慌だったのである。」
こうして見ると、私たちが最も知りたい世界経済の現在をマルクスの眼で解明するという難問題、逆にマルクスの側から見れば彼自身の理論の可能性の展開という課題に、不破さんが一人敢然と挑んでいるのがよく分かる。
そういう意味で、私は、不破さんと柄谷氏の問題意識の接近を最近のブログ記事の中で指摘したのである。
2008年の恐慌に柄谷氏が言及している文章もどこかで読んだ覚えがあるので、同じ現象をこの二人がどう違ってとらえているのかという比較は可能であるように思える。時間があれば、いつか考えてみたい。
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