« TKG | トップページ | ボールを投げる―砂の可能性の中心としてのボール »

2010年7月26日 (月)

「自由主義」について若干の用語の整理  new と neo の違い?

友人にサンデルの本の話をしていたら、「どうして古い自由至上主義に、新自由主義という名前が与えられるのか」、と質問された。

詳しい理由など私が知るはずもないが、ここは次のように整理しておこう。

アダム・スミスを代表とする古典的な自由主義、カタカナでいうとリベラリズム、liberalismがまず存在した。利潤を追求する個人の自由を原則とするものである。産業資本主義の完成に対応する。

その後、これは、他人への配慮や格差についての反省を欠くことを批判される。ロールズはその批判者の代表の一人である。自由主義 リベラリズム、liberalismという用語は、この批判者のほうに移動した。こうしてリベラリズムは福祉国家の思想となったが、本当は、こちらのほうが新自由主義 new liberalism と呼ばれるべきではあった。(その可能性も現実にあるので、今あるものは neoliberalismと呼んで、newと neoで区別しようとしているわけである、というとややこしくてたまらなくなる)

そこで古い自由主義 リベラリズムは別の用語で呼ぶ必要が生じ、自由至上主義と呼んで区別されることになる。カタカナで言うとリバタリア二ズム、libertarianismである。もともとそうとも呼ばれていたのである。(日本では特別に特定の性と年齢に着目してovertarianismとして人口に膾炙している・・・本気にしないように)

しかし、その後、リベラリズムによる福祉国家を否定して、古い自由主義、すなわち、自由至上主義の復活を主張する一派の登場という事態が生じた。「イギリスに存在するのは社会ではなく、個人だけだ」と言いきったサッチャーや、学者ハイエク、フリードマンなどがその代表である。そこで、これを新自由主義、カタカナでいうとネオリベラリズム、neoliberalism と呼ぶ。実質はリバタリアニズム、libertarianismであるが、グローバル時代の利潤第一主義である。産業資本主義が腐朽し、一種の商人資本主義が主流として復活したことに照応する。

一方、リベラリズムも社会への視線の希薄さが批判され、社会変革をより鮮明に意識する新しいリベラリズムが生まれることになる。しかも、この批判をロールズはすなおに受け入れる。この批判は共同体主義、カタカナで言うとコミュニタリア二ズム 、communitarianismと呼ぶ。これは、グローバル時代の福祉国家志向であり、現代マルクス主義もここに合流する以外にはなくなっており、一まとめに新福祉国家思想と呼んでもいい。

おそらくは、間違っているのであるが、だいたいこういう地図を描いて友人には説明した。

最初の段階での自由主義と呼ばれる立場の反対極への移動が、興味深いのではないかと思えたので記録しておくことにした。

それと、こういうことに素人っぽく関わらざるをえない理由は、私自身の職業である医療に大きな影響を与える社会疫学や健康影響評価学が、その研究結果を正義・不正義の観点からどのように解釈し、社会政策に結び付けていくかということに、ロールズやセン、つまりリベラリズムやコミュ二タリアニズムによる根拠づけがどうしても必要だからである。

それは、冷静な社会科学的認識が、熱い社会変革へと飛躍する時点で、倫理というバネがどうしても必要だという、人間社会の一般的事情にもよることなのである。

その倫理を、日本国憲法の新しい解釈とも結びつけて「健康権」という人権概念の名前で呼んでもよいのではないとも考えている。

|

« TKG | トップページ | ボールを投げる―砂の可能性の中心としてのボール »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「自由主義」について若干の用語の整理  new と neo の違い?:

« TKG | トップページ | ボールを投げる―砂の可能性の中心としてのボール »