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2010年7月 3日 (土)

映画「しかしそれだけではない  加藤周一幽霊と語る」2010、R.J.リフトン「ヒロシマを生き抜く 精神史的考察」岩波現代文庫2009

ある意味、鑑賞に非常な忍耐を必要とするいう点で上記の二つは共通する。

そこで、最後に私の心に浮かんだことを書くだけで、この2点の鑑賞記録としたい。

「世界のなかでほとんど消えるほど小さい個人の意識が、それでも全世界に意味を与えることができるんだ」と加藤さんは、もはやどんな対外的な行動もできなくなったような死の直前に語っている。

同じように、原爆被害者が無力感と使命感の間を動揺し、行きつ戻りつしながら、精神的麻痺から回復する姿をリフトン氏は繰り返し描写した。

子どもでさえも致命的な病気を患えば、周囲に真実味のこもった態度で接することを強く求めることは臨床の場で明らかになっていることである、とリフトン氏は言う。「死をまじかに控えた者であれば誰でも、自分の真実の生命をたしかめなおし、それを他の人間の生命と心から結びつけたいという深く強い願望を抱く」(下巻、362ページ)

被爆の直後から、そのような死と生を生きているのが原爆被害者であるが、それは彼らに限ったことではない。

死をまじかに控えたものが望むのは、病院が用意する「事前指定書」に自分が受ける医療を制限するように書くことなどではなく、自分の死後も生き残るものと心から結びつき、なお外の世界に意味を与えることである。

そう思うと、僕たちの末期医療に向かう姿勢は根本的に間違ってきたと思う。。「その人らしさを尊重する看取り」などというのはあまりも生き残るものの優位に立ったもののいいようである。薬で痛みをなくすのも、ひたすら語りに耳を傾けるのも、我々の間にある生命的な結びつきを最後についに打ち建てるためなのである。

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