当直の夜の読書 スラヴォイ・ジジェク「ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度目は笑劇として」ちくま新書2010
当直の夜に読むには最悪の本である。おかげで、短い仮眠時間のすべてを悪夢に占領されてしまった。
断片的に読めばどこも面白い。知らされることの少ないヨーロッパの情報が多く語られている点も物珍しく感じられる。
たとえば
83ページ:2007年 7人のチュニジア人漁師がシチリア島付近で、遭難しかけて確実に死にそうだった44人のアフリカ人難民を救助してシチリアに連れて行ったところ、不法移民を助けた罪で逮捕され有罪となった。逆にほぼ同じ立場に立った漁船が、遭難者を棒で叩いて追い払いおぼれさせたことが通報された時は、何の措置もとられなかった。こうしたことは、政治の表舞台で「人間的に」ふざけ散らしているベルルスコーニ首相の仮面の下の真の政治である。しかも、イタリア左翼残党は彼を宿命として甘受してしまっている。
93ページ:主観的な幸福が何よりだ、という文化資本主義が喧伝されている。映画「トータル・リコール」では、本物の休日を楽しむ代わりに、楽しい休日の記憶を脳に埋め込むサービスが描かれていたが、安上がりでヴァーチャルな幸福があちこちで提供されるのが現実となっている。たとえば、スターバックスのコーヒーは少し高い。それはスターバックスがフェアトレードをめざしてコーヒー豆を貧しい農民から少し高く買っている、と主張することによる。「スターバックスでコーヒーを飲むとき、あなたはコーヒーの倫理を買っているのです」といわれて客は幸福になる。こうした主観的幸福論に影響されて、ブータンの国王は国民総生産GNPの測定より、国民総幸福度GNHを測定するという馬鹿らしいことを始めてしまった。こうしてブータンは文化帝国主義(あるいは幸福帝国主義)の植民地になってしまったわけである。
195ページ :ポスト・ポストコロニアリズムの段階、すなわち本当の独立の状態は、旧植民地側が、植民地化が古い伝統を断ち切ってくれたことは有難かったと旧宗主国にさらっと言ってのけられるようになって初めて完成する。その時、悪名高くなってしまったマルクス「イギリスのインド支配」1853(イギリスはどんな罪を犯したにしろ、知らないうちにインドの革命の手助けをしていた、とマルクスはそこで言った)の本当の意義が見出される。フランツ・ファノンは、「私には黒人として過去を謝罪してもらう権利など要らない。私が黒人であることは何の価値もない。私が持っている権利は一つだけ。それは他者に人間らしい振る舞いを求める権利だ」と言い切った。
251ページ:柄谷行人が「普通選挙による議会制民主主義はブルジョア独裁の形式であり、くじ引きこそプロレタリア独裁の形式だ」、なんて堂々と提起してしまうと、それはただ馬鹿げてしか聞こえないよ。
などなど。
だとしても、全体の構造がさっぱりわからない。誰か少しでもわかりやすく解説してみてくれ、と言いたい。
目次を見ると「第一部 現状をコミュニズムの視点から眺め、第二部 新しいコミュニズムを展望」するという2部構成になっているのだが、どうしたら、そう読み取れるのだろう。
混沌が好きな人にはうってつけの本というべきだろうか。
それともスラヴォイ・ジジェク氏の本を何冊か集中して読めばいずれ分かるようになるのだろうか。
実はそれが一番怪しくて、何冊読んでも、明瞭な姿を現さないという戦略をとっている人のように思えるので、2冊目は読まないほうがいいかもしれない。
ただ、一番最後に
「恐れるな。反コミュニストごっこはもうおしまいにしよう。いまこそ本気でコミュニズムに取り組むべき時だ。そして人生の最後はコミュニストとして大往生しようぜ」と呼びかけているのは、まぁ、少しは共感した。
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