柄谷行人「トランス クリティーク カントとマルクス」 岩波現代文庫2010・・・①「正義」と協同組合運動論として②不破さんとの類似
文庫本で500ページを超える厚さで、読み通すのに2週間もかかった。相当に難しいので、ただちに要約は難しい。
しかし、医療生活協同組合に所属し、社会疫学にも関心を持つ私の立場からは、身近な問題提起に満ちた本だった。
あっさり言ってしまうと柄谷氏による「カントの倫理学にもとづく協同組合のすすめ」だと思えばよい。
①社会疫学とのかかわり
社会疫学は、健康の社会的決定要因を追求し、健康格差の解決、さらには平等な健康の実現をめざしている。
そして、単に健康を害する社会的定要因となっている事柄、例えば貧困や社会的排除を緩和するのみではなく、そうした要因を産み出す社会自体をこそ変えなければならないというところに踏み出している。
(分配の上流には生産があると言い換えてもいい。生産の変革によらない分配の変革は不安定で永続しない)
社会疫学などという言葉が生まれる以前、いち早くそれに気づいて実践した人には、チリのアジェンデ(小児科)、アルジェリアのフランツ・ファノン(精神科)、アルゼンチンのゲバラ(専攻不明)、古くはドイツのウイルヒョウ(病理)などが挙げられる。
そのときの根拠こそ「正義」なのである。何が病気を作り出すかという医学的な証明ではない。その証明は、「正義」という根拠にたどり着くまでのサーチライトにすぎない。
その正義の定義としては、アメリカではロールズの「正義論」が採用され、イギリスではロールズを批判したアマルティア・センの説が採用される傾向が強い。
しかし、柄谷氏もロールズとカントの関係を好意的に論じた長文の注を付しているように、またセンの講演がたびたびカントに言及するように、ロールズもセンも、おおもとではカントに準拠している。
おおざっぱにいうと、カントの説く倫理によって私たちはこの時代に健康を実現しようとする運動の根拠としているのである。
これは、柄谷氏がいう「資本の自己増殖運動は、いかなる危機を伴おうとも、自動的に止むことはない。それを止めるのは倫理的介入のみである」、そして「それはカントの主張する倫理なのだ」ということに一致する。
資本論第1巻の最後で述べられる「資本主義的私有の最後の鐘が鳴る、資本独占の外皮がついに爆破される」事態は決して、資本主義の自滅ではなく、資本論の結論を知った人々をカントの説く倫理が捉えることにより、実践に導くので生じるのである。
健康を実現することも、資本主義を乗り越えることも、実は同じ課題で、それを成し遂げる人々にとって、学問的な証明を超えたところで働くカントの説く倫理観こそが出発点になるのだ。
②医療生活協同組合とのかかわり
柄谷氏は繰り返し、利潤は必ずしも生産過程でのみ生じるのでなく、古い商人資本と同様に、流通過程でも生じうると説いている。また生産過程で生じた利潤も自動的には実現せず、流通過程を経て初めて実現するということも繰り返し強調されている。
要するに空間的、時間的に違う体系間に生じる価値の差が利潤として実現すると考えるべきなのである。
技術革新による相対的剰余価値(利潤)は、同じ社会の中に、時間的に新しい価値体系と古い価値体系が生じることによって、その断層間に利潤が生まれてくるというものである。ここでは利潤は生産過程で生まれて流通過程で増幅される。
一方、昨今私たちが目にしている「マネー資本主義」は、空間的に=国ごとに違う為替相場の差を利用して利潤を得るというものだった。ここでは利潤は、生産とは全く無関係に流通だけの中から生じている。
そのように現実をリアルに見詰めた上で、生産過程よりも流通過程で、すなわち労働者の労働力が再生産される消費の場でこそ、労働者が資本に対抗する最大の拠点を獲得できる、と主張される。
考えてみれば生産現場の闘いも、たとえば過労死をなくすという問題を取り上げてみてもわかるように、始まりは「どう生産するか」ということでなく、労働力の再生産、すなわち健康の維持のための消費をめぐる闘いだった。
これは引き続き「どう生産するか、すなわち、生産のコントロールを資本が握るか労働者が握るか」という闘いに、つながっていく。この最終決戦の課題、すなわち、資本主義を廃棄するかどうかという決定的な課題は、こうして準備されていくのである。
注意すべきは、労働者による消費者運動は、新自由主義の「消費者主権」主義とは対立するものであるということである。「消費者主権」主義が、贅沢な消費を展開する資本家が生産過程を支配する道具であるのに対して、労働者による消費者運動は労働者の主体の確立の道である。
その中では、例えば途上国の労働者の生産過程を見据え、途上国の労働者の犠牲の上に自らの労働力の再生産を有利にすることを拒否し、自らの生存条件も守りながら、かつ途上国の労働者の生存も可能にする消費(フェアトレード)を発展させることなども、労働者の自覚的な消費者運動によって初めて可能になる。
そこで展望されるのが、生産者=提供者と消費者の結合した協同組合、私たちの用語では非営利・共同セクター、いわゆる第三セクターによる経済活動、文化活動である。その国内的かつ全地球的な発展にこそ資本主義を乗り越えていく展望がある。
ここで話は飛躍するが、医療も、労働力の再生産のための消費と文化の場として、労働者の主体的力が発揮されなければならない場である。
医療生活協同組合こそまさに労働者の生命の再生産のためにこそある協同組合である。すべての生産者=提供者と消費者の結合した協同組合の基本として医療生活協同組合があると言って過言ではない。
横道にそれるが、私たちにとって頭が痛いモンスター・ペーシャントは、このような協同組合には無縁なものである。それは医療に「患者様は神様」とする「消費者主権論」が入り込むことで生まれてきたものにすぎない。新自由主義の産物である。
③ところで柄谷行人氏の資本論読解は基本的に宇野弘蔵氏によるものである。私が持った一見奇妙な感想は、決して交叉することがないように思える不破哲三さんと柄谷行人氏の意見の類似である。
「ゴータ綱領批判」の読み方や、エンゲルスやレーニン評価の変化などにおいて、二人が近付いているという印象が否めない。これはもう一度二人の書いたものを読み比べて確認してみたくなることである。
日本共産党は その綱領に書かれている以上の何か公認の学説を持ったり、支持したりする立場にはないので、そういうこともごく自然に行われればいいだろう。できればしんぶん「赤旗」に質問の葉書を出してみたいくらいだ。
宇野弘蔵氏も聞くところによれば、よく言われるように社会変革の意思を全く持たず、ただ社会科学の研究対象として『資本論』を選んだだけの人というわけではなく、それなりに社会正義に熱意を持っていた人だというから、偏見は捨てないといけないのだ。
ただ、その矢先にがっかりしたのは、宇野学派の初心者向け概説書である伊藤誠「『資本論』を読む」講談社学術文庫2006で、「ソ連が社会主義を実現しつつあることに宇野は信頼を寄せ続けていた」とある。
失礼だが、なんだその程度の人かという気にはなる。
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