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2010年7月 1日 (木)

川本隆史編「ケアの社会倫理学」有斐閣選書2005 から香川知晶「生命倫理教育の反省ー大学」、大谷いづみ「生と死の語り方ー『生と死の教育』を組み替えるために」

 臓器移植法改正についての解説を求められたので、関連した本を拾い読みしていると、以前、編者の川本隆史さんから直接いただいた上記の本の中に、参考になることがたくさん含まれている二つの文章を見つけた。当初はあまり興味を感じることができないままに読み通せなかったものであるが、今回はここかしこに自分の知りたいことが書いてあるように思え、ページをめくるのがもどかしかったくらいである。

それにしても、川本さんから得るものは多い。わずかな交流だが、同年齢なのに、私にとって必要な本を私が気づくはるか以前に彼からあらかじめ示されているような気がする。それができるのは彼の長い大学教員としてのキャリアによるものなのだろうか?

それを考えると、ちゃんとした師について学ぶ機会のある人は本当に幸せだと思わなければならないと思う。

そこで、上記の2篇について簡単なメモをここに作っておきたい。*は私の純粋な個人的呟きである。

1:香川知晶「生命倫理教育の反省ー大学」

◎日本の生命倫理教育は1980年代後半から始まっている。内容はアメリカからの直輸入で、エンゲルハートら著『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』、加藤尚武・飯田亘之(二人とも千葉大学)編としてまとめられている。

*エンゲルハートの本から日本の大学の生命倫理教育が始まっている、ということなのだが、空恐ろしくなる話ではある。

◎その中で森岡正博だけはアメリカ一辺倒の風潮に批判的だった。しかし、大勢を変えるには至らなかった。

◎ここでアメリカの生命倫理の発展経過をたどっておくと、最初は「医療におけるパターナリズム」の批判として始まった。それによって、「医の倫理」は昔ながらの「医師・医療提供者の職業倫理」を超えて生命倫理に発展する契機を得た。

◎医療への患者の参加に伴って、「医の倫理」を非専門家が語る可能性が開けた。このときのスローガンは「人格としての患者」(P.ラムジー)である。医療は医師による施術の場でなく、人格間の交流の場と捉えたものである。インフォームド・コンセントもこれに連なる概念である。

◎ここから、臨床倫理4分割表を日本に紹介した佐賀県の故白浜雅司医師が師と仰いだジョンセンの「自律・恩恵(利益を最大に危害を最小に)・公正」を原則にした臨床倫理が生まれてくる。

◎+*しかし、そこがあまりもアメリカ的なのだが、「関係の場」として捉えられるや、それはただちに「サービスの市場」に変わるのである。

*アメリカには公共の場というものはなく、場といえば「市場」なのであろう。

*医療が関係の場と意識されたから市場化したのか、市場化されたから関係の場として意識されたのかは難しい。具体的な事実にあたって考えなけれなばならないが、普通は市場化という物質的な根拠が先行したと考えるのだろう。

*これが日本に導入されると、1995年厚生白書の「医療はサービス」宣言になり、「患者様」の登場になるのである。

◎しかし、生命倫理は別の課題も見つけ出す。それは新しい医療技術の発展を社会倫理の中に位置づけるとという課題である。社会と医学の間の橋渡しとでも言うべきものである。

*ここで、医療倫理には3領域あることがわかってくる。①医療提供者の職業倫理・企業倫理 ②医師ー患者関係の倫理・・・・これが普通にいう臨床倫理である  ③医療と社会の関係を論じる倫理・・・これが普通に言う生命倫理である。

◎社会と医学の橋渡しの一つは、医学につきものの人体実験の規則作りであった。黒人や囚人に対する人権無視の人体実験がこれで禁止になった。しかし、それより大きな問題として、脳死臓器移植の国家的規制の問題が浮上する。その中では、「自己決定があり、他人に危害を加えないことであれば何でも許される」いう最小限倫理が原則化していく。

*この「最小限倫理」は、アメリカを席巻していた新自由主義と同じだという気がする。遠慮がちに言うと「親和性が高い」というべきだろうか。

◎最小限原理を脳死臓器移植に適用する中で、エンゲルハートの「医学における人格の概念」が登場してくる。生物学的生命と人格的生命を区別して考え、脳死した人は、生物学的には生きているが、人格的にはすでにそんざいせず、臓器を他の人格の利益に供することによってのみ意義を持つ存在、と規定されてしまう。これが、脳死臓器移植を肯定する生命倫理的根拠になる。

◎日本では、こうしたアメリカ生命倫理の紹介が研究業績となる時期がずっと続いている。大学における生命倫理教育も、その風潮のもとで行われている。

◎そんな生命倫理学に将来はない、と言ってよいだろうか?

希望は、臨床倫理と生命倫理の橋渡しである。その手段としての患者・家族の語り(ナラティブ)の重視に筆者・香川は展望を持っているようである。

2:大谷いづみ「生と死の語り方ー『生と死の教育』を組み替えるために」

◎小学校や中学校で「生と死の教育」が盛んになっている。しかし筆者・大谷には、それがきわめて危ういものに思えている。

◎すなわち、生命倫理教育が先端医療の無批判な肯定(*それは外資系生命保険会社の市場であるー野田)となり、「死に向かい合う教育」デス・エデュケーションが高齢社会対策としての高齢者医療費削減対策になってしまうという危惧である。

◎生命倫理教育の中で、末期医療が扱われるとき、キュブラー・ロスの死の受容の5段階が紹介され、生命の質(QOL)について考えるように促される結果、「ただ生物として生きている生命に意味はなく、過度な延命治療を自己決定で拒否することが正しい」という結論が誘導されている。長野県で盛んに唱えられているピンピンコロリも同じ発想である。その誘導の目的が高齢者医療費の削減にあることは当然隠されている。

◎実際に教育現場に現れている生徒のレポートの中に「老人や障害者が社会や家族への負担を減らすために自ら死を選べるように援助することが社会の進化だ」とするものが現れている。

◎自己決定で「死ぬ権利」を行使することが正しいと誘導する教育になっている背景は、その教育がアメリカのからの直輸入だからである。

◎教育者は、そういう誘導が「病気や障害や加齢で質の低くなった生命あるいは人格を、自己決定という名目で、社会的に廃棄する」ものだとそろそろ気づかなければならない。

その教育は生徒自身の自己観に反映されて、「できないこと、できなくなること」を過度に恐れ、人の世話になる障害者になるくらいなら自殺を選ぶという姿勢を産み、また「できない自分」「できなくなった自分」を無価値なものと感じさせている。

◎筆者・大谷はここで、中学の体育教師として模範演技中に脊髄損傷となったあと、優れた詞画集を多く書いた星野富弘のナラティブを取り上げる。それは障害を負うことによってはじめて見えてきた人間関係についての星野の省察である。

「もし、私がけがをしなければ、この愛に満ちた母に気づくことなく、私は母をうす汚れたひとり百姓の女としてしかみられないままに、一生を高慢な気持ちで過ごしてしまう、不幸な人間になってしまったかもしれなかった。」

*この言葉は私にとって切実なものである。

*その田舎くささから人前で一緒にいることの恥ずかしさを私が克服できないままに、したがって成長した子供が病気になった母親に当然かけるやさしい言葉も口にできないままに、私の母親は急死した。おそらく、母親にまっとうに人間として対峙するためには、母の急死以前に私自身が重い障害を背負わねばならなかったのだろう。同じことは、私が今日でも絶えず批判的に見ている、貧しくて敬語も使えず生活習慣において自己コントロールのできない患者や、日々の身をすり減らす過酷な労働のためTVの軽薄な番組の話題しか職場で披露できなくなっている同僚に対しても言えるのだろう。

*車椅子に座って、その患者たちのなかで半日を暮らし、患者としてその同僚の世話を受けて、私は初めて、彼らの本当の存在を認識できるのだろう。

◎大谷は上記の星野の語りから「価値の転換」の可能性を提示する。

◎その教育への反映は、、常識として主張されていることの後ろに隠されている残酷で非人間的な権力関係に気づきうる知性と、能力によって人間を格付けし、能力の劣った人間を廃棄しようとする「内なる優性思想」を克服して、自分のなかにも他人のなかにもある人間であることの絶対的価値を見出すことの強調である。

◎そうすれば「できなくなること、できないこと」に対して過度の恐れを持つこともない、障害者・高齢者の持つ権利を自分自身の権利として確信できる主体を、教育のなかでつくりだすことができるのである。

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