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2010年6月23日 (水)

「健康権」へのアプローチ・・・社会疫学だけではなく

渡辺 治さんが言っていたように、民主党が、小泉以上に新自由主義的な頭部、田中角栄流の利益誘導に回帰しようとする胴体、社会福祉の実務家の手足からなる3部構成だったのは確かなようだ。

小沢一郎が率いる胴体が後景に退くと、政治の表舞台は新自由主義者・菅のしたい放題になってしまった。

菅を市民運動出身だなぞと持ち上げるのはやめにしないといけない。ただの転向・堕落した政治家、たとえばポーランドのワレサなどの同輩に過ぎない。

もし、労働者が彼を支持するとすれば、被害者が加害者を支持することによる、まるで1848年のルイ・ボナパルト、1933年のヒトラーの権力奪取と何も変わらない事態が出現することになる。

そうなる前に、情勢を変えることが急務である。

それは、それとして、7月から施行される臓器移植法改定について考えていると、僕は一つ気づくことがあった。

無条件に「脳死は人の死だ」と国家が決めてしまうことは何を意味するのか。その後に来るのは「尊厳死法」の制定だろう。回復する見込みもなく人工呼吸器を用いて生存することを国家が許さないということである。その実施は極めて簡単だ。診療報酬での支払いを止めて、全額自己負担にすればよい。

そこまでくれば、植物状態の人、末期状態の人の治療中止も自由になる。

その時のキーワードは自己決定、家族の決定である。

自己決定などという美名を信じてはならない。それは自己決定という名の国家による死の強制である。

その根拠として持ちだされるのは、「健康増進法」にある「国民の健康である責務」(すなわち健康の自己責任)であるかもしれない。健康でなくなった国民は、責務への違反者として、死を自ら選ばねばならないのである。

これに対して健康の自己責任論を完全に否定するのが、「健康権」である。健康であることや、健康を失った時の回復の保障責任が国家にあることを宣言するのが「健康権」である。

これまで、僕は「健康権」を社会疫学からのアプローチだけで考えてきた。それは健康権の由来と、実現の道を科学的に指し示すきわめて有力なアプローチではあった。

しかし法律や医療倫理からの「健康権」へのアプローチも検討されなければならない。

その手がかりとして、弱者を順番に自死に追いやる改定臓器移植法の本当の狙いや仕組みを考えることが有効である。

とくに、新自由主義が菅のもとでふたたび息を吹き返している今、僕たちは厳しくそれに向かい合う必要がある。

*深夜に、エレニ・カレインドルーEleni Karaindrou の演奏を聴きながら、こんなことを考えているのも、今が6月だからだ。

6月の湿った夜の向こうからは、いつも正義を求める喊声が聞こえてくる。

50年前も40年前も、そして今年も。

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