« 「健康権」へのアプローチ・・・社会疫学だけではなく | トップページ | 川本隆史編「ケアの社会倫理学」有斐閣選書2005 から香川知晶「生命倫理教育の反省ー大学」、大谷いづみ「生と死の語り方ー『生と死の教育』を組み替えるために」 »

2010年6月27日 (日)

小松美彦ほか編「命の選択  今、考えたい脳死・臓器移植」岩波ブックレット2010

6月30日に倉敷市内の病院で、7月17日から施行される改正臓器移植法の解説を頼まれたこともあって、上記のブックレットを精読した。以下は、それをもとに考えたことである。

①立花 隆が主張した「現行脳死基準は『もう助からない』という基準であって、真の脳死基準ではない。「もう助からない」は「もう死んでいる」とは全く違う。「もう助からない」でも治療するのが、たとえば胃癌なら当たり前だろう。脳だったら違うという理屈は立てられない。さらに、この状態では何らかの意識が存在する可能性もある。したがって現行脳死基準で臓器摘出をすれば生体解剖と同じになる」という批判はまだ払拭されていない。また、安易で非科学的な脳死判定を許容する姿勢は、たとえば低体温療法などの脳死予防治療の発達を妨げるものである。アメリカで、低体温療法などの、正当な脳死予防治療が発達しなかったのは、臓器移植優先という姿勢が原因だったと考えられる。

②それでも立花 隆は「脳死は人の死」だとする立場である。もっと明瞭に「脳死は人の死だ」を否定する主張もある。脳死を人の死だと証明するという「米国大統領生命倫理評議会」の論理を、あまりに脳中心に偏りすぎて誤っていることがここでは指摘される。その脳第一主義の行きつくところがエンゲルハートの「パーソン論」であり、実はこれがアメリカでの脳死臓器提供の哲学的根拠になっていることへの批判が、「脳死=人の死」を否定する根拠となる。

エンゲルハートの「パーソン論」は露骨な人格の格付けで、以下のようなものだと理解できる。 

―人格は以下の5段階に分類できる。

ⅰ)自由な人格
ⅱ)従属人格(①に扶養されているが、ADLは自立している)
ⅲ)不完全人格だが、苦痛を感じうるので配慮が必要な人格 
ⅳ)人格とは認められないが社会に負担のない範囲で保護すべき存在
ⅴ)生物的には生きているが、脳は死んでおり、臓器を他人に提供することのみで社会に貢献できる存在

③また、「治療は臓器移植しかない」という診断の不確実さも明らかである。臓器移植しなかった場合の予後の統計がそれを示している。さらに、臓器移植という治療方法への疑問も強くなっている。同じ病棟に入院している患者さんの死によって、自分の優先順位が上がることを望んだことがいつまでも忘れられない、という患者証言もある。

④それにもかかわらず、今回の臓器移植法の改正は、ドナー(臓器提供者)本人の生前の自己決定を不要とし、それに伴って、15歳未満の小児がドナーになれるようにした。6歳未満での脳死判定基準が存在しないにもかかわらずでる。

⑤また、旧法では、ドナーに限って「脳死=人の死」と謙抑的だったのに、その条件を外して、一律に「脳死=人の死」としてしまった。そのため、「脳死者への治療は死者の治療」という矛盾を生んでしまい、「当分の間、脳死者への治療の健康保険給付を認める」という附則を作らざるをえなかった。脳死判定後、迷った親族が最終的医に臓器提供を拒んだ場合でも治療は行われるということは約束したつもりなのだろう。

しかし疑問は膨らむだけである。

「当分の間」とは何か?

臓器目的以外に脳死判定がなされてしまった場合はどうするのだろう?

5月21日の報道では、民主党は、臨床的脳死例の治療打ち切り合法化の検討を始めたということである。

この報道こそがその答えだろう。これを認めてしまえば、尊厳死から、安楽死へと治療打ち切りの合法化が拡大する。

その時は、「死の自己決定」という言葉が、「死の強制」の隠れ蓑になるのは間違いがない。

⑥さて、改正の背景は、2010年5月のWHO総会での渡航臓器移植への制限姿勢である。貧しい国の人々を助けること目的以外の渡航移植を禁止したい意向がWHOにはある。これは、生命の平等の方向に向くWHOとしては当然のことだろう。

私たちも、生命の平等という立場から、臓器移植法改正について考えてみる必要がある。それは能力によって人間の価値や処遇に差別を持ち込んではならないということに尽きる。

能力を決定する最大の要因のひとつが健康であるため、この問題は「健康権」の確立の過大につながる。

健康権を、社会疫学の方向から、人権法の方向から、さらに医療倫理の方向からと多方面に考えてみなければならない。

結論から言えば、≪健康への「自己責任」を果たさなかったから、あるいは能力が劣るから、死への「自己決定」を選ばなければならない≫という地点に人を追い込む論理を、「健康権」の原則で否定することこそが求められているのである。

そこをより詳しく論じると、「健康の自己責任などというものはない」ということを社会疫学で示し、「自己決定は国の人権尊重義務の最高レベルのもとで行われる」ということを人権法論で示し、「脳の状態による人格の格付け、能力による差別は許されない」ことを、社会倫理、医療倫理で示すことで、健康権の原則を豊にしていく必要が私たちにはある。

|

« 「健康権」へのアプローチ・・・社会疫学だけではなく | トップページ | 川本隆史編「ケアの社会倫理学」有斐閣選書2005 から香川知晶「生命倫理教育の反省ー大学」、大谷いづみ「生と死の語り方ー『生と死の教育』を組み替えるために」 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

初めまして。
 御講演頂きました倉敷市内の病院で内科医をしている丸屋です。

 御講演時にも、ご質問させて頂きましたが、「疾病の自己責任」に関して、私は、一定割合の自己責任はあると考えております。

Solid Factsのペーパーを読んで居りませんでしたので、後日読みました。

先生御指摘の、「シングルマザーの喫煙率は高く、経済的貧困が、苦痛から逃れるために喫煙に走らせ、健康状態を悪くしている」との事実が記載されていました。

それでは、離婚していない子持ちの女性は、皆喫煙しないのでしょうか?そのような事は無いと思います。

貧困者の飲酒・喫煙率は確かに高いかもしれませんが、貧困が原因の全てであるとは言えないと思います。

シングルマザーでも喫煙も飲酒もしない人もいます。
裕福で社会的ステータスが高くても、飲酒・喫煙する人はいます。

社会的・経済的環境、労働環境が健康に影響を及ぼす事は全く疑いの余地が無い事実ですが、100%ではありません。

Solid Factsで、ストレスや仕事(あるいは失業)という社会的ファクターも取り上げてありますが、同時に食事(野菜や果物を食べるか)、運動(車だけでなく徒歩や自転車を使うか)などもあわせて論じられています。

先生が上げられた、健康影響へ及ぼすファクターの関与割合はここでは論じられていませんでしたが、肺癌の予防に禁煙は重要なファクターであることは、間違いないでしょう。

 糖尿病を担当している臨床医としては、生活習慣病完全否定論は、理解できません。
 疾病の自己責任論ですべての病因を個人責任にするつもりはありませんが、先生のお話では、個人の自己決定権・選択権と言ったものを否定されているようにも受け取れました。その事は裏を返せば、個人の人権を返って否定しているとも取られかねないと思います。

 社会疫学的アプローチは確かに有用な研究方法であると思いますが、集団として議論する場合と、個人として考える場合は、違いが有るのではないかと思いました。

投稿: 丸屋 純 | 2010年7月11日 (日) 12時05分

丸屋 純様

コメントありがとうございます。
先日、病院に伺った際には大変お世話になりました。

生活習慣がどの程度問題なのかについて触れた文章として、信頼できるものにマイケル・マーモット「ステータス症候群」日本評論社2007の52ページが挙げられます。

引用しておきます。
「仮に喫煙、血圧、血漿コレステロール、低身長、そして血糖値などの危険因子を多く持っていたために、地位の低い男性が心疾患で早死にしたとしよう。もし、この仮説が正しいなら、これらの危険因子を統計的に調整してやれば、、もともとの地位の高い集団との死亡率比がもともと1.8倍あったのが、同じ相対死亡率比、すなわち1倍になるはずである。しかし、実際には1にはならなかった。ただ、1.5倍をちょっと割る程度になっただけだ。つまり、これらの危険因子を調整しても、心疾患による死亡の社会格差3分の1も説明できない」

ここでは心臓死に限られていますが、おそらく生活習慣病による死亡とされているもののなかで、真に生活習慣が氏院になっている割合は1/3以下なのです。

しかも、その生活習慣の差の中に、社会心理的格差の影響が濃くみられるのです。その程度を数字で言い表している文章は見ませんが、「多い・少ない」で言えば「多い」のだと思います。

それから、自己決定については、私も自己決定が医療における原則だと思っていますが、自己決定を装った権力的な矯正には最大限警戒すべきだとお話ししたかった次第です。

幾つかの病院で取り組まれている「事前指定書」もそういう警戒心なしに行えば、医療の放棄を強制する手段になりえると私は思っています。

まだお互いの発言はすれ違ったままかもしれませんが、今後「社会疫学の知見に基づいた慢性疾患医療の改善」などのテーマで共同作業ができる可能性が広がっていると思います。

今後ともよろしくお願いします。

投稿: 野田浩夫 | 2010年7月12日 (月) 18時19分

追加です

①誤字がありました。氏院→死因、矯正→強制です。

②それから、地位の低い人でも生活習慣がよい場合、地位の高い人でも生活習慣が悪い場合がある件ですが、それは当然あることです。
皇族でも、アルコール依存に陥り、食道癌を相当早く発症する実例があります。
ただ、そういう例があるというだけでは、生活習慣に影響する地位の影響を否定することはできません。集団的な傾向としてどうかということです。

それより重要なのは、そういう例外と見える場合でも、生活習慣がよくても地位が低い人は健康状態が悪く、生活習慣が悪くても地位の高い人は健康状態が良いということが貫徹されるということです。

だからと言って、生活習慣の改善が無駄だと言っているわけではありません。その効果は相当に小さく過大に評価はできない、また、改善が困難な理由としては、個人の意志の弱さよりも、外部的な社会心理的な条件の悪さのほうが大きいということを見ておくべきだろうと思います。

③また、ソリッド・ファクツの、食物や交通については、個人的な選好が述べられているのではない点にご注意ください。

○貧困な人は、熱量と脂肪が多く危険でもある質の悪い食品を割り当てられやすいということが述べられています。

○交通のほうは、テキストの書き方が不十分だと思うのですが、自家用車をもたない老人、貧困な若者、へき地に住む人が、社会参加の機会を失って、健康を損なうという点を重視したいと思います。公共交通を老人に無料で提供することは、社会参加の機会を通じて、老人に健康を提供していることになるのです。

投稿: 野田浩夫 | 2010年7月12日 (月) 23時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小松美彦ほか編「命の選択  今、考えたい脳死・臓器移植」岩波ブックレット2010:

« 「健康権」へのアプローチ・・・社会疫学だけではなく | トップページ | 川本隆史編「ケアの社会倫理学」有斐閣選書2005 から香川知晶「生命倫理教育の反省ー大学」、大谷いづみ「生と死の語り方ー『生と死の教育』を組み替えるために」 »