加藤周一さんが心の中に現れる
加藤さんは、よく架空会見記を書いている。本居宣長や佐久間象山や・・・・。
誰かがそれだけを集めて一冊の本にしたら面白いと思う。
誰が加藤さんにとって架空会見記の対象になり、なってもいいはずの誰がならなかったか。
その差異から加藤周一という人を理解する手がかりが得られるかもしれない。
それにしても、架空会見記は、一つの表現方法にすぎないと私には思われていた。
しかし、ごく最近の体験から、実は加藤さんは本当に彼らと話していたのではないかと思うようになった。
地方の小さな医療生協法人の理事長は孤独である。現場に立つ臨床医としては日々が目まぐるしく過ぎていくが、医療生協の発展はそれに比べると緩やかで、自分で見つけてこない限り有意義な課題は現れない。見えていても着手すべき糸口が見つからない日々もある。
また、全国組織の平理事の会議外の日々も孤独である。月1回の会議に並んで座っているだけでも任期は過ぎていくのだから、自分で発見した課題を追求していく以外にその職務が充実することはない。
ちょうど、そういう時期だった。医療生協についても全国組織についても自らの課題をしっかりとつかんでいるという自覚を持てないまま、さらに出かける間際に現場に残した仕事の不備の多さに気付きながら、東京への飛行機に向かう廊下を歩く。そのとき、加藤さんが僕の心の中に現れたのだった。
それからしばらくずっと加藤さんと会話し続けた。そうすると孤独でない自分を感じた。
ああ、こうして人格が分裂することで、危機に陥った自分が辛くも守られていくのだな、加藤さん自身にもこういう時があったのではないか、と気づいた。架空会見記も、主観的には架空でなかったのかもしれない。
羽田についても加藤さんと話し続けた。
「さっき、そこにいた女の子のスカートが短いことに先生はびっくりされませんでしたか」
「いや、あの程度ならバンクーバーでは何度も経験した」
「うーん、それはこの間の冬季オリンピックのフィギュアスケートのことでしょう。キム・ヨナとか」
「いや、私がバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学でスカートの短い学生に日本文学を教えていたのはベトナム戦争のころだから、君の説明は当たらない。それに私は和服のほうが好きだ。『羊の歌』でも書いたことだが、京都では・・・」
その時、僕は手に持っていた上着に顔を押しあてて思い切り笑ってしまったので、電車に同乗していた人たちはさぞかし驚いたに違いない。いや、東京だから、なんでもありだったかもしれない。
全国組織の事務所について、やっと僕を孤独にはしておかない仲間たちに会うと加藤さんはいつのまにか消えていた。上野毛かどこかにある自分のうちに帰ったのだろう。
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