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2010年5月 8日 (土)

「組曲虐殺」と宮本顕治八〇年代論 (全14冊)「歴史の中の日本共産党」

井上ひさしさんの「組曲虐殺」をTVで見たせいだろう、ふと小林多喜二の盟友・宮本顕治の本を読みたくなって、なるべく軽い紙質のものということで、上記を本棚から取り出して出勤した。休憩時間と昼休みでほぼ全部を再読できた。

印象を一言で言うと宮本さんは、機動戦から陣地戦への過渡期の人だと思う。

「幹部」という言葉が頻発する。要は品性高く能力ある幹部を抜擢することが組織作りだということである。

すべての失敗は、品性がなく能力の低い人が間違って幹部になってしまったことから生じる、と宮本さんは言いたそうである。

これは機動戦の考え方だろう。ロシア革命や、日本の戦前の運動高揚期のように、運動に加わるものは自然発生的に多く、敵のスパイも紛れ込みやすいなかでは、「幹部」=即戦力=組織ということになるのは当然である。

しかし、1970年代、80年代は機動戦の時代だったろうか。

宮本さん自身が、機関紙赤旗の拡大を中心にした陣地戦の戦略を打ち出した人その人ではなかったのか。

除名された袴田氏は機関紙を中心した活動というスタイルの確立に確信を持てず動揺し、地方組織にそういう意見を広め分派的活動にも至ったので、宮本さんが厳しく批判した経過もこの本には書かれている。

その時代、「幹部」抜擢=組織構築という考え方ではどうしても歪みを生じてしまう。

一命を賭しても使命を貫く幹部が直ちに必要で、そういう人間だったかどうかはすぐに試される、というわけではない時代に、幹部とはそういうものだと論じれば、すでに幹部となっている人に、彼はそのように品性高く能力がある人だ、というお墨付きを証明なしに与えるだけのものとなる。それは出世主義を助長させるものである。

実際に、私の周りには、「30歳ぐらいで地区委員になり、40歳では県委員になっている」という人生設計を語る学生もいたし、赤旗拡大に点数をつけて競わせるという風潮も蔓延していた。

友人と学生らしい話を長くした後「あッ、そうそう、赤旗日曜版、僕も読んでみようかな」と言われたので、担当の人に手続きを御願いに行くと、めんどくさそうに「N1だけ?○○君はH2だよ」と符丁であしらわれたこともある。

それを思い出すと、局地的にはカルト化していたといわれても仕方ない気がする。宮本さんと池田大作の対談も、掲載した新聞は「現代の大組織を作り上げた典型的な二人」という扱いだった。

カルトが言い過ぎということであれば、相互監視・競争を基本にした、前近代的・農村的な共同体的結合と言い直してもよい。

これについては、宮本さん自身も、山手線のなかで機関紙を売らせるなどという非常識なことを指導した時代もあったことを否定的に振り返ったこともあったので、当時既に克服過程にあったと思われる。

陣地戦のためには、人と親しくなり、共に学び、困難なときには支えるという組織にならなくてはならない。幹部を抜擢することが組織作りだというわけには行かなくなるのである。

機関紙が中心、というのも宮本さんのときとはもう違っているのではないか。機関紙は絶対に必要だが、機関紙を使って何をするかのほうに重点が移っている。

地域・職域でどうネットワークを作るかが課題である。

ネットワークは、前近代的・農村共同体的な結合の反対語である。

どちらもソーシャルキャピタルに含まれるが、現時点では、前者は健康によく、後者は健康に悪いことが多い。

機関紙中心の陣地戦という新戦略を開拓しながら、意識は機動戦時代から抜け出せなかった過渡期の人が宮本さんだというのが結論である。

考えてみると、彼の2段階革命説も、労働者階級が中心になった民主主義革命は、ほとんど時をおかず社会主義革命に転化するという性急な構想で、ネップ以前のレーニンから抜け出せていないものだった。

逆に、井上ひさしさんの「組曲虐殺」では、小林多喜二を見張って逮捕しようとしていた下級刑事が多喜二と親しくなり、警官の労働組合を組織し始めるところで終わる。そのネットワークこそが、井上さんの結論だったような気がする。

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