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2010年2月 9日 (火)

山田洋次の二枚腰・・・寅さんを格差社会の滑り台に乗せたら・・・映画「おとうと」2010

貧困・格差や病気を自己責任として描き出し、社会保障の必要性を否定する議論に私たちは厳しく反対し、運動もするが、現場では無意識に自己責任論に捉えられて他人の苦境に目を閉ざしているところもあるのではないかと思える。

サラ金に何度も手を出す人、家族への暴力がやめられない人、専門病院入院を頑強に拒んでアルコール依存を克服できない人、肺がんや喘息になってもたばこをやめられない人、覚せい剤を使ってC型肝炎になった人たち、いわゆる「ごんたくれ」の皆さんに対する私たちの態度が、同じ理念を持つ医療・福祉の職場で働いていても、各人によって相当違うのは、社会的決定要因と自己責任の見極めが現場ではあいまいになるからだろう。

「生活保護を受けているあんたが使う酒代は、もとをただせば私たちの税金だよ。そこのところ、どう思うの。答えてごらん」としつこく言って、時間外に受診したアルコール依存の気の小さいvulnerableな小父さんを泣かせた同僚に、そこまで言わなくてもと思う。しかし、生活保護で受給したお金をすぐさま居酒屋で使い尽くしたのでこれから1ヶ月は入院させろと大声でわめく大柄かつ横柄な真夜中の来訪者を理解するのは誰だって難しい。それは警察に連絡するだろう。

しかし、本当に自己責任による不幸というものがあるのか、ということを突き詰めて考えるとそれもあいまいだということに気付く。

ごく視野を狭く家庭内にとっても上手に誉められて能力が伸びていく長男の陰に、忘れられて身をもちくずす次男がいう例を考えてみよう。

こうした初期条件の相互依存による紙一重の差が、その後の環境でさらに大きくもなれば、小さくもなる。

共感できそうにもない「ごんたくれ」の皆さんも、もしかすると私たちの存在によって被った小さな被害が、大きな被害の出発点だったのだろう。

これをまとめれば、最初のわずかな違いからその後数十年間の違いの拡大まで、自己責任部分はごく小さいといえるだろう。

しかし、そのような機会の不均等の問題をあえて大きく取り上げず、「自己責任で生活が追い詰められた人も存在する、そのとき私たちはその人にどこまで共感できるのか」という問題を立ててを考えてみたのが、この映画である。

一種の思考実験のように山田洋次の視点は低い。

「おとうと」は一見、どこの家族も抱えている仕方のない親戚の話に過ぎない。リストラや過労死は出てこないし、自己責任論への反論もない。

たとえ自己責任で窮地に陥った人がいたとしても、その人の窮状を私たちは放置していいということになるのか、ここから議論を起こしているのである。

「自己責任ではないから救済されるべきだ、自己責任だから救済されなくてよい」、そういう区別は正当なのか、という議論は、そこに自己責任があるかどうかという議論よりより根源的だ。

この映画はあえてそれに挑戦する。

根源的に、機会の平等を保障された上での競争で負けたとき、どんな目にあってもいいのか、という問いをこの映画は提起しているのである。

そんなことはあってはならない。人間であるというただ一点だけで、人間は平等に扱われ尊重されなければならない。

たとえ自己責任で身を持ち崩し健康破綻に追い込まれた人であっても、援助の手を差し伸べる人がいて、その援助を期待することは人間だれしもに与えられた権利なのだ。

それは私たちの社会の当然の出発点のだということを山田洋次はまずこの映画で宣言する。

そのうえで、存在していたはずの機会の平等というもの自体が怪しいのではないか?と、さかのぼって、たたみかけて行けば、本当の議論になるのである。

しかし、この映画にはもう一つの隠れた主張が存在する。実はそちらのほうが実際的には重要である。

それは「男はつらいよ」と「おとうと」を比べたとき、何が見えてくるかということである。

同じような社会の落伍者を主人公とした映画が30年の月日を経てどれだけ違って見えることか。

後者を前者の後日談とするには、あまりに陰惨な落差がある。同じ結婚式でも、「男はつらいよ」第1話の桜の結婚式にはみんなが大笑いするが、「おとうと」の小春の結婚式には映画ながらも正面視できない辛さがある。

かってのように社会の格差勾配がある程度低ければ、寅さんで終わるが、寅さんを現在の格差社会の滑り台の上に載せると、「おとうと」になり、瞬く間に滑り落ち、死んでいくのだ。それでいいのだろうか?

このような格差の拡大が許されるはずはない。人間としての救済の権利をまず主張しながら、そこにはとどまらず、そもそもそういうことを論じなければならなくなる事態を私たちは正義とは認められないのだ。

これが山田洋次の二枚腰であり、時代認識の鋭さである。

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