大江 健三郎「水死 」 講談社 、2009
あまり品ぞろえもよくない書店に平積みされていたのは、講談社の発行だからだろう。
装丁は面白い。作品の初めで重要な話題になる「赤革のトランク」の、赤革に似せてある。
さて、小説としてはどうなのだろう。
351,352ページにある、ヒロイン「ウナイコ」の恋人 桂達夫の語る言葉
「とくにこの二十年ほど、あなたは自分の小説が若い層にアッピールするよう努力することはなかったのじゃないですか?広く読まれたいという気持ちはないんですか?」
「この十年、十五年、長江さんのすべての長編がこの調子じゃないの?基本的には語り手がみな作家自身に重ねられている。それはやはりやりすぎじゃないの。小説らしい小説を読みたい読者を取り込めない。」
これに対する長江古義人の答え「それは,ぼくも認めますよ」「このような書き方でなければ書くことを維持できなかった」
に尽きているようだ。
70歳を過ぎ、作家としては崩壊に直面しつつある大江の渾身の作品ということである。過去の作品の丁寧な読者でなければ理解できないことが多いという不親切さも、そうでしかありえない大江側の事情によるので読者としては受容する以外にない。
しかし、彼は何に対峙しているのだろう?「男は強姦する、国家は強姦する」歴史と社会だろうか?
それはそうなのだが、そのままでは受け取れず、自分の枠組みの中に取り込んでみなければ解らない所が残る。作中でも強調される「空想とは違う、根拠のある想像」が必要とされるのである
作品の底を流れるのは、彼と故郷・愛媛の和解できない関係のように見える。愛媛は新制内子高校での大江のいじめに始まり、彼を郷土出身の大作家とは自然に受け入れたくない保守的反動的暴力的政治風土がある。それにも関わらず、大江の中にある原風景への執着は強まっていくのだ。
原風景とは戦争前後の「谷間」。戦争前後とは実は日本国憲法前後である。
日本国憲法によって変わったものと変わらなかったものが故郷にはある。
変わったように見えたものは実は偽装を得意とする狡猾さに因っており、実は変わっていなかった。
一方、変わらなかったように見えたものは日本国憲法によって蘇り守られた健全な日本の古層、人々の抵抗性だった。それが日本国憲法で明確に意識されたことが真実の変化だった。変わらなかったものが変わったものだったのである。長江の祖母と母が行った1947年の「メイスケさん」という、幕末・明治の一揆に題材をとった芝居こそその象徴である。
大江が故郷の古層とますます固く結び付きながら、故郷の表層と対決を強めなくてはならないのは当然のことである。このことと漱石「こころ」の「明治の精神」も相似形である。「明治の精神」とは、近代化明治に抵抗して明治に生き残った古層日本、すなわち内発的に民主主義を求める人々の意識、自由民権運動や大逆事件でっち上げへの批判を生む精神と解釈しないと一貫しない。
もちろん、現実の大江と愛媛県民の関係については詳しくは知らないのだが、作品からはそう読み取ることができる。とすると、大江がこの作品で向かい合っているのは、やはり<世界、国家から村までを貫いて支配する側の暴力>ということだろう。
2月3日アメリカ国防総省は4年ごとの世界戦略の見直しを行い、なおアフガン戦争をその中心に位置付けた。そしてアフガン、イラン、中国、北朝鮮と結ぶ不安定な弧に対する警戒を続けるとしている。そのアフガン戦争への日本自衛隊の参戦こそアメリカの対日戦略の中心であり、偽装を得意とする狡猾さで日本を支配してきた勢力の方針でもある。
彼らに対決する姿勢が変わらぬことを示した作品として、私はこの作品を支持したい。この本が平積みされていることこそ、日本の未来を明るくする一つの材料である。
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