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2009年11月 9日 (月)

西川美和、「ディア・ドクター」、「きのうの神様」ポプラ社2009・・・結論:だから何なのだ、面白ければよいというものでもないぞ

最近山口で上映され始めた映画「ディアドクター」は西川美和が監督をし、小説「きのうの神様」は同じく西川美和が書き、直木賞候補となったものである。今日はその両者について感想を書きたい。西川が私と同じ広島県出身だからである。ただし、1974年生まれだから、私より22歳くらい若い。

「きのうの神様」とは、昨日まで偽医者だったことがばれた男のことか 、今日、権威を喪失している医師全体のことである。また、たとえ医師であっても昨日と同じ知識しか持っていないのであれば、免許があっても偽医者になってしまっているとも言えるかもしれない。

カバーに使われているのは逆立ちした木の幹の写真だが、扉の写真ではまっすぐに立っている。これはすぐには意味が分からない。

映画だけを見た時は、画面の美しさに比べ、人物描写のあいまいさが目立ち、評判ほどではないな、と思わせられたが、小説を読むと、映画の面白さが立ち上がってくるような気がした。

西川はそういう構造を最初から考えていたようである。

小説は短編集で、冒頭の作品は「1983年のほたる」である。これは村の学校教師の娘で、映画の中では母が現在進行胃癌を病んでいる、女医鳥飼りつ子の子供のころの話。

彼女が住んでいるのは神和田村である。映画では茨城第一タクシーという看板が出ていたので、茨城県という設定だが、著者の故郷広島県でもいいのだろう。

広島は、私立中学の受験が盛んなところで、進学希望の山間部の小学6年生は月1回模擬試験を受けに広島市にバスで出る。順位100番までの名前が発表されている印刷物が1週間後に届き、その中に自分の名前を見つけるとほっとするという1年間を彼らは過ごすのである。

僕もそういう境遇だったが、20年後の主人公りつ子もそのような小学6年生である。彼女は町に通うバスの運転手と不思議な交流を持つ。運転手の姉が、中学から主人公の憧れの学校に行き、市内の寮に入って寂しそうにはしていたが、いっぽうで医師をめざして颯爽としていたという思い出話を聞く。その姉は高校2年で急死する。りつ子が医師になった背景の話としても読むことができる。

二番目の短編「ありの行列」は瀬戸内海?の小島の診療所の所長交代要員を3日間だけする中年の無気力医師が主人公である。「来た球を打ち返す」だけで、医師になった初心も忘れ、医師であることに何の感慨も持てなくなっている男が、ほんの短時間「善いことをしている」と思う体験を持つ、しかし、それもほとんど無意味なことであったと後でわかるというなんとも脱力感に満ちた話である。

この話の主人公は医師だが、「来た球を打ち返す」だけという発言は、映画中の偽医者の台詞と重なり、映画の主人公の心情がここで表現されていると読むことができる。

となると、この短編の主人公は、偽医者に感化された研修医とも読めるわけで、最後に置かれた「満月の代弁者」のさらに後日談なのかもしれない。

映画の主人公である偽医者は、もとはペースメーカーを病院に売り込む医療機器販売会社の社員だったわけだが、おそらく神和田村の村長と知り合い、頼み込まれて偽医者を始めたのだろう。いやいや医者をやっている。

患者との触れ合いの中ではときおり「善いこと」をしていると思うこともある(映画では刑事に「あんたたちのオナニーにつきあわされる患者がかわいそうだ」と身も蓋もなく言い返されていた)が、偽医者にその感覚が長続きもするはずがないので、虚無感は絶えず続く。その心情は、この短編によく表現されているし、多くの医師も似たようなものというのもリアルでよい。

3番目の短編「ノミの愛情」は、神和田村診療所勤めの、元は病院救急部にいた看護師の、身の上話である。外見ばかり取りつくろう小児心臓外科医の妻となっていた空しい時間の回想。

4番目は映画と同じ題名の「ディア・ドクター」。偽医者になった男の、偽医者になった動機が明かされている。医療機器メーカーを辞めて誰か(おそらく神和田村村長)に誘われて、寒村の医師一人看護師一人の診療所の事務長になったという実家への報告が、実は偽医者になったということなのだろう。

偽医者になった動機は外科医だった父への憧れである。しかし、子供も残してはいけないと思うような敗北感も強い。父の急病に際しては、患者に触れる経験が多かったものの余裕がさらっと描かれている。その風貌は、主演の鶴瓶をあらかじめ思い描いているようなところがある。脳塞栓で意識がなくなった父の足の小指の爪をはがそうとしたら、父が虎のように吠えた、というシーンは映画で刺身をのどに詰まらせた老人が息を吹き返すところに似ている。

最後に置かれた「満月の代弁者」は映画の後日談だろう。偽医者のもとに来ていた研修医の話だと想像できる。神和田村の研修の後、8年間東京で働き、へき地医療を志望して半島の人口2500人の村で4年過ごしたが、すっかりマンネリの生活となり都会に帰る。もう30歳代後半になっている。村には東京から帰って92歳の祖母を介護している同じ年頃の独身女性もいる。祖母の余命10年とその介護に費やされる孫娘のこの10年はどれほど意味が違うだろう。祖母はそれがよくわかっているので早く死んでしまいたいが、当分死ねそうもない。女性は医師に心を寄せている。満月の夜にそれがわかるが、すべてを置いて東京に帰る。

帰り道に急に自我が小さくなる。世界中から見放されたような気持。そこへ、おそらく神和田村の馴染みの看護師から電話がかかる。小児科医と離婚した看護師。医師とは研修医時代に恋人だったこともあるようだ。神和田村の医師が急にいなくなって応援してもらえないかという依頼の電話に男は応じてしまう。

映画も小説も全体に乾いているのがいい。赤ひげのような、医師の英雄物語と程遠いのは、名郷直樹氏などにも取材して、リアルなものに仕上がっているからだろう。

*映画で、偽医者が内視鏡が上手にできるのは医療機器メーカー社員だったためかと思える。実例を聞いたのだろう。

ただ、上に書いたことをすべてひっくり返すようだが、僕の最終的な感想は、「チェーホフのような手触りや、謎解きの面白さはある。

だがそれが何なのだ?」ということである。

場合によっては、若い頃下手にへき地医療に触れると、医師の魂を枯らしてしまうという教訓談とも受け取られかねない。

小品、あるいは商品としての小説や映画の範囲としてはこれでいいのだろうが、現実の医療側としては、こういう扱い方の題材になるのは迷惑なのではないだろうか。

おとぎ話や、小情況や、人情の機微で語るには、問題が深刻すぎるのである。

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