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2009年11月14日 (土)

利休鼠と 渡辺 治「憲法9条と25条・その力と可能性」かもがわ出版、2009

11月11日、12日と神奈川県の三浦半島に出張した。先端に城ケ島のある半島である。ここに行くのは初めてだ。

出発する前、医局の同僚が「城ケ島の雨」という歌の中の「利休鼠の雨が降る」という歌詞の意味が昔から分からない、というので、「宇部名物の小さな饅頭 『利休さん』くらいのごく小さな鼠、すなわち利休鼠が雨のように降るらしい。最近でもオタマジャクシが空から降ってきた話があるでしょう」というと、「そういえば、最近、マンションの上の階からペットのシマリスが降ってきたが、ちゃんと着地して死ななかった」という会話に真面目に展開していった。

本当は、緑がかった灰色を「利休鼠」と呼ぶのである。

それはともかく、関東南部、特に三浦半島付近にはその日、大雨警報が出ていて、羽田から宇部に向かう便も定刻には出発できず1時間以上遅く着いたので、折り返しの宇部出発便も遅れた。羽田に着くと外は真っ暗だった。

羽田から三浦海岸までは京急で行くのだが、暗い雨の夜、どこに運ばれていくのか、という感じで不安になりながら着いた。会場は古いマンションを研修用のホテルに転用したもので、私には2DKくらいの部屋が講師用として用意されていたのだが、古い部屋に「利休鼠」が出てくるのではないか、押入れに頭を入れると、上から手が出てきて引き込まれるのではないかと恐怖心を持ちながら眠った。

出張の目的は、事務幹部学校の講義だった。それに関連があるので、数日前に入手した上記の本を大慌てで読んで、要点をプレゼンテーションのスライドに5、6枚にまとめ追加して臨んだ。

というわけで、この大事な本をそれにふさわしくきちんと読み込んでいないので、ここで、、もう一度読み直して、要点をメモしておこうというものである。

あとがきを見ると、この本が渡辺治氏の本としては、かなり変わった本であることがわかる。氏としては初めて憲法25条を正面から取り上げている。次に、支配層の動きでなく、抵抗する運動の歴史を追っている。また氏の嫌いな「です、ます」調で書いてある。特に、最後の点は、来年、一橋大学を定年になって、これまでとは違った立場で運動に向かうということの反映のようである。

まず、上記の本の結論から。

憲法の意義は、憲法を変えようとする運動が何を狙っているかを明らかにし、それと闘っていく中で初めて明らかになっていくものである。

ある意味で、私たちの立場からも憲法は絶えず読み変えて行くべきものである。

ではいまはどう読むべきなのか。

9条は東アジアの平和を作るための日本の役割を定めたもの、かつ東アジアの平和がなければ達成できないものとして読み、25条は国家にそれを守らせるための具体的な法律(仮に社会保障基本法)の制定が必須な段階に来ている、と読むべきなのである。

では、ページを追って要点をメモしていこう。もちろん、あくまで私風にである。

*日本国憲法が占領権力によって起草され、国民によったものでなかったことは、国民が憲法の価値を認め、憲法が力を持つうえで大きな制約となったのは確かである。

*しかし、政府が憲法を変えようとする策動を起こすごとに、国民の憲法観は深くなり、より深く価値を認めるようになっていった。

*占領権力が自分で憲法を起草するなどという非常識なことをした理由は、東アジアを侵略し、2000万人の人を殺した日本帝国主義の復活を絶対に許さないという強い意志があったからである。第一次大戦の敗北後、民主的平和的なワイマール憲法をもったドイツが10年とたたないうちにナチスを育ててしまったという反省がその底にあった。永続的に軍備の道を閉ざせば、ドイツの轍は踏まないという考えから9条が生まれてきた。

*しかし、そういう方向は示しても、いちおう日本側の自主的作業で憲法を起草するという方針が最初はあった。いくつかの案が出来上がったもののお話しにならない代物だったのでやむなく、占領軍が自分で作らなければならなかった。

*その、やむなく、という点には少し事情がある。米軍中心の占領軍に代わって、連合国全体の機関としての極東委員会が日本の占領を指示することが決まり、その交代までに占領軍は自分のイニシアティブで憲法を決定しておきたかったのである。

*憲法で軍備を禁じておけば、占領軍が去っても、再軍備はないという見通しを占領軍は持った。これが前文と9条である。

*前文は、国民主権を表明しているが、文章の主眼は、政府の行為で侵略が2度と起こらない内容にするというところにあり、これは9条にまっすぐつながっていく。

*しかし、9条を前文の中にではなく、9条として独立させたところに、これを現実化しようとする強い意志が表明されている。

*9条でも、戦争の放棄をうたった第1項は平凡である。歴史的に新しいのは、軍備の不保持を定めた第2項である。第2項は世界でも現在は少数派だが、いずれは多数派になる。

*憲法9条は、日本一国の平和のためというのでなく、日本によって東アジアの平和が乱されないためにこそ、作られた。この構想は受け継いでいかなければならない。

*一方、貧困を除去する福祉国家的規定は憲法に十分盛り込まれなかった。当時の日本の国力から見て、福祉国家になる財政的余裕が到底日本にはないと判断されたからである。

*しかし、日本の国会では社会主義者の衆議院議員・森戸辰男(のちの文部大臣、広島大学学長)が、現在の25条第1項となる「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という文言を押し込んだ。これに対し、保守党は、現在の25条第2項=国の責務と、憲法13条の幸福追求権にあたるものが既に書きこまれているのだから、それは不要だと抵抗した。これに対し、森戸は、「13条の幸福追求権は国家がそれを邪魔しないというだけの自由権にすぎない。25条第1項は、国家が責任を持つという社会権だ。また2項だけでは国からの恩恵という印象にしかならない」いう旨反論して、ついに勝利した。

*9条は第2項が重要、25条は第1項が重要と記憶しておこう。

*しかし、実際には憲法25条が現実問題となったのは朝日訴訟からである。生活保護の水準を問うところからそれは始まった。

*憲法25条は1960年代から70年代の革新自治体の中で豊かにされた。蜷川京都府政も一様ではなく、憲法25条に着目するのはその後半である。それには、美濃部東京都政の影響が認められる。

このあたりで、貧困者救済の低レベルの福祉国家レベルから、中間層のニーズにも応える中レベルの福祉国家像が具体化してきた。生活保護をどうするかという課題から、教育、保育、住宅、高齢者、環境をどうするかが課題として意識され始めたのである。

しかし、このころから、それに対抗する意味での企業(的福祉)社会+地方利益誘導政治が進められ、自民党と独占資本による疑似福祉社会が成立する。国民の25条への期待はここで少し小さくなった。

そのため25条=生活保護という見方にまで後退した。1987年の札幌での39歳女性餓死事件は、企業(的福祉)社会花盛りの中で、それからはじかれた人に対する生活保護が小さすぎるという、生活保護の問題として受け止められた。

それは、2005-2007年の、北九州の3人の餓死事件とは様相が異なる。後者は、企業(的福祉)社会自体が崩壊したことによるものできわめて大きな意味をもっていた。

*1990年以降の資本主義のグローバル化の中で、競争力強化のための国内負担減少と、海外資産を守るための軍事力強化要求が財界から強く出され、9条と25条は政治の焦点に押し出される。

*9条改憲策動は、ついに自分の手で改憲を行うという安倍内閣を生み出した。これに対して9条の意義への認識が国民の中に急速に深まって、無数の「9条の会」ができた。このため、安倍は退陣を余儀なくされた。

*企業福祉、地方への利益誘導は崩壊させられた。これによって25条が革新自治体の時以来の、それを超えるような大きな意義を与えられた。25条の具体化なしに国民は生存できなくなったと言ってよい。

*そういう、情勢を踏まえて、上のような結論に至る。

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