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2009年10月30日 (金)

「たたかう」と宣言する必要はないのかもしれない

民医連の新しい綱領案のなかに、社会保障確立のために「たたかう」という項目があり、議論すると若い人たちにはその言葉はずいぶん抵抗があるのだという。

日本文学研究者の小森陽一氏も、戦争を想像させる用語は避けたほうがいいと言っている、と最近宇部に来た大山君からも聞いた。

しかし、「たたかう」は私にとってはしごく日常的な言葉だったので、そういう意見は理解できなかった。

今日、たまたまブログ「紙屋研究所」で民青同盟の第34回大会議案のことを知った。すぐに「大会決議案」と民青同盟紹介ビデオを事務局に頼んで取り寄せてもらって、読んだり見たりしていると、なんとなく、このあたりの事情が呑み込めてきた。

民青同盟は、生きづらさにあえいでいる若者たちの「居場所」だとされているのだ。

ビデオでは、初めて真摯に自分と向かい合ってくれる人たちに出会ったので泣いた、と静かに語る若者を見た。

議案の中には「たたかう」という言葉は2箇所しかでてこない。うち一か所は、日本共産党が青年とともにたたかうと言っていることの引用、残り1か所は総選挙で日本共産党の前進めざしてたたかったということだから、実質は出てこないに等しい。居場所を広げようという呼びかけはあっても、たたかおうという呼びかけはない。

深夜、いつものように自転車で帰宅しながら、ようやく私は気づいた。

私の周りには、たたかって負け続けた若者たちばかりが集まっているのだ。

1848年のドイツ3月革命の中の敗北の中で26歳の医師ウイルヒョウは、権力は支配のためならどんなことでもすると思い知らされた。

それと似て、いまは新自由主義の暴風のなかで、成果主義や互いの競争のなかで、労働者はぼろきれのようにされてしまっているのだ。

かっては強力だったらしい労働組合のナショナルセンターも伝説の向こうにかすんでいる。

どうして、彼らがいまこの時期「たたかう」という言葉を使いたがるだろう。

それが時代認識でなければならない。

もちろん、たたかうことは絶対に必要だ。激しく言い争わなくてはならないときもある。相手のうそを見逃さず、責任を追及しなければならないときはある。

しかし、それはそのときにそうすればいいだけのことだ。そういう時があると覚悟して、ひそかに準備を続け、その技術を磨けばよいだけのことだ。

あえて仲間に向かって「たたかう」と見得を切ることはないのだ。それは多く、そう発言するもののごまかしだったり、保身だったりする。ただの言語上の習慣に過ぎない場合もある。

「居場所」を必要とする弱いものとしての自分を自覚し、同じ立場の仲間を発見することのほうが先だし、「居場所」作りをすることを自分の仕事にしてもよいのだ。

それに気づくと、夕方から捕らえられていた疲労が涙になって溶け出すような気持ちがしてきた。

月の光の下の坂道がいつもとは違って見えた。

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