ある類似 ①センによるロールズ批判と②不破によるレーニン未来社会論批判
このブログは大半が昼休み、夕方の外来診察終了後、当直の深夜の患者観察中に書いているので、手元に何の資料もないことが多い。そのため、どうしても不正確な話になるのだが、今日もそのようなことである。
①センがロールズを批判したのは、ロールズの言う平等の測定が、「その人が持っているもの(資産や収入)」のみで行なわれているということである。それでは平等の最も大切な点を見逃すことになるとして、センは「その人に何が出来るか、どの程度自由な行動が許されているのか」を測定することを提案した。
例えば、同じ額の収入を与えられても、健常者と障害者では、出来ることが違う。これでは平等とは呼べない。障害者にはより多くの援助が与えられて、初めて行動での平等が実現するわけである。
何が出来るかで平等の程度を測るための尺度を、センは「潜在能力」と呼んだ。
これを援用して、湯浅 誠は「溜め」という用語を発明した。
同じ月収があったとしても、それまでの人生が違えば、出来ることが違う。医師免許を手にした研修医が親の援助を得て最初の1、2年を低収入で修行しているのと、一生正職員になれない条件で働いている若者が低収入で生きるか死ぬかというところにいるのとでは全く意味が違う。
前者にはハーバードに留学する可能性もあるが、後者には路上で孤独死するほどの可能性しかないかもしれない。それが個人が持っている「溜め」の格差である。
また、キューバのように平等に収入が低くい場合でも、社会全体の援助が豊富ならば、どの個人の将来にも豊かな可能性が出てくるのである。
センとロールズの違いは、平等の捉え方において、静態と動態のどちらで捉えるか、または、所有や分配、それとも生産を含む人間的活動のどちらを本質と考えるかの違いといえるかもしれない。
②一方、不破哲三によるレーニン批判というのは、広義の共産主義をⅰ)社会主義とⅱ)狭義の共産主義の2段階に分けるレーニンの定式に関してのことである。
不破によるとⅰ)「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会主義からⅱ)「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」共産主義への発展というレーニンの2段階論は、生産物の分配にのみ注目した誤りである。
生産手段の社会化こそが共産主義の本質であって、本来のところ社会主義、共産主義という2段階などは、マルクスも想定していなかったし、今後も考える必要がないというものである。
(そこで、社会主義と共産主義に違いがないならどちらの用語を使ったらよいのか困ってしまった・・・・という件については、日中共産党理論会議に関するところでふれておいた)
私自身の実感からも、「労働に応じた分配」という格差が社会主義段階ではまだ残っていてもしかたがないという、これまでの説明は、障害者の待遇だけをとってみても、また「能力の共同性」を主張する竹内章朗説を学ぶ立場から見ても困る話と思っていたが、それはこの説明で一応解決された。
この問題における不破とレーニンの違いは、分配と生産のどちらを本質と見るかの違いと簡単にまとめられるだろう。
というわけで、実のところあまり関係がない二つの事柄だが、①と②を類似しているものと考えて頭の中にしまっておくと、忙しい日常の中でややこしい話を整理しやすいというのが今朝の私の発見だった。
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